居酒屋の入り口には「本日貸切」の札がぶら下がっている。
木の葉で一番広いその店では、三つある広間をすべて繋げての大宴会が開かれていた。
主催は五代目火影であるところの、綱手だ。
木の葉崩しからの復興にひとまずの目途がつき、休む暇もないほど酷使した里の忍びを労うためと銘打ったこの宴はその実、里の予算で酒を飲みたかっただけでは無いか、とは内勤の忍の共通認識であった。
うみのイルカもその一人だ。
アカデミーの教師として働く傍ら、任務受付所にて任務の振り分けや受理を行うイルカは、綱手と共に受付へ座していることが多い。
好きな賭け事も制限され、里の長老からその振る舞いを叱咤され、鬱憤が溜まっているのは火影も働き詰めの忍も同じだと、付き人であるシズネとのやり取りから日々感じていた。
だからイルカは綱手が突然この宴を思いついた時も、その幹事をイルカに振ってきた時も、内心面倒だなとは思っていても表面上は快くその任を引き受けたのだった。
里の忍にほぼ全員声をかける形での酒宴は珍しい。三代目の時代にも滅多に無かったことだ。当然、任務中の忍や結界班、他にも看守や哨戒中の忍など、すべての忍が参加できるものでは無い。
賑やかな場が好きな者にはできるだけ参加させてやりたいと、各班に打診してシフトの調整をしたり、面識のある外勤の忍には個人的に声をかけてみたりと中々に骨の折れる作業に一か月ほどを費やし、やっと実現したのが今日のこの日だったのだ。
もちろん一人ではとても手に負えなかったから、四苦八苦するイルカを見た綱手がその時ちょうど近くにいたという理由で特別上忍のアオバにも声をかけてくれ(彼にとっては不運なことに)苦労を共にすることができた。アオバには外勤の忍との折衝においてその交渉力を遺憾なく発揮してもらい、参加者リストが出来上がる頃には戦友とも言える間柄になっていた。
そのアオバと共に大広間の入り口側に膝をついて、追加注文を取ったり運ばれてきた品を店員と共に配って回るのが今日のイルカの主な仕事だった。普段は飲み会ともなると年若い者が率先して下働きをするのだが、今日は無礼講ということもあってその任を一手に二人が引き受けていた。
発起人であるところの綱手は上座でとうにできあがっている。
参加を表明していた者のうち九割近くは顔を見せていた。忍という職業柄でいえば上々の出席率ではないだろうか。これだけ賑やかだと綱手も宴を開いた甲斐があるというものだろう。
ただ賑やかに騒ぐだけでなく、里の復興を皆に浸透させるのが狙いでもあったのだろう。これだけ忍が集まって飲んでいれば目立つし、里の住人にもそんな暇があるほど忍の手が空いたのだ、里が落ち着いてきたのだ、と思わせることができる。
外患が去ったわけでは無いし、噂に聞くところによれば”その時”は確実に迫ってきているのだけれど、一時的にでも里が落ち着くのは良いことだ。
「おい、イルカ、お前も少しは飲めよ」
アオバにそう声をかけられる。
「何言ってんですか、まだまだでしょう。アオバさんこそちょっとは腹に入れた方が良いんじゃないですか」
「いや、俺は良いんだ。あんま食わない方が良いから」
ちらり、とアオバがサングラス越しに視線を上げる。その先に、頬に斜めに火傷の跡が走る特別上忍の姿を認めた。だがそれがどういう意味を成すのかイルカには分からず、「まぁ俺もいいですよ」と言うに留めた。アオバには時々そういう、意味深なフリをする所がある。件のライドウと親しいのは知っていたが、最近二人が大きな声で揉めているのを見たばかりだ。
「おーい、お代わりまだかー」
のんびりと、よく通る声に呼ばれてイルカは腰を浮かせる。
「俺ちょっと見てきます」
そう言い残し、忙しなく動く店員に紛れて厨房へ足を向けた。案の定通っていなかったオーダーを急ぎで注文し直し、宴席に戻る途中でふと尿意を思い出し厠へ立ち寄った。無造作に脱ぎ散らかされたスリッパをどうにか引っ掛け、小用の便器へ踏み出したとき
「あれ」
と後ろから声がかかった。
「イルカ先生、こんなところに居たんですか」
振り向いてみれば、銀色の髪の上忍がそこに居た。眠そうな目を片方だけ晒し、額宛てを斜めにかけ黒い口布で顔の半分を覆っている。言わずと知れた里の誇る上忍、はたけカカシその人だ。
「カカシ先生、いらっしゃってるとは存じてたんですが、ご挨拶がこんなところになっちまいましたね」
わはは、と笑いかけると、カカシもその目を弓なりに曲げて応えてくれる。
特に親しい付き合いでは無いが、イルカの教え子であるナルトを師として導いてくれた男である。一方的に食って掛かったこともあったが、謝罪も済ませナルトが里を出た今となってはただの中忍と上忍の間柄に過ぎない。
多忙なはずのカカシがこんな宴席に顔を出すとは意外だったが、端の方でちびちびと飲んでいる様子は知っていた。
「何か俺に御用でしたか」
隣り合って用を足しながら、それとなく口を開く。
カカシは少し躊躇うそぶりを見せ、
「いや、用ってものでは無いんですが」
と言ってちらりとイルカに視線を向けた。局所を剥き出しのままなのが何となく居心地が悪くてそそくさと身なりを整える。
「あなたはちゃんと食べてるのかなと思いまして」
カカシもまた下履きを整えながら、イルカと並んで手を洗う。意外と几帳面なところがあるようだ。
「いやぁ、俺は今日はいいんですよ、幹事ですからね。皆さんが楽しむお手伝いをするのが仕事です」
「……損な役回りですね」
「そうでもないんですよ、五代目の覚えは目出度くなるし、他の内勤連中にも恩が売れるし。結構打算的なんです、俺」
言って再び笑えば、カカシは今度はイルカを見ないまま、ふふ、と笑ったように見えた。口元が見えていれば、口角が少しは上がっていたのではないか。
「面白い人ですね、あなた」
「え?そうですかね、あははー……」
その後が続かない。カカシは何を言うでもなく、出口を塞ぐかのように立ち止まっている。彼がどいてくれないと、イルカは宴席へ戻ることができない。いや、厠から出ることもできないのに。
「あのー、カカシ先生」
声をかければ、今度はじぃ、と見つめられて思わず一歩後ずさる。
突然考え事でも始めたのだろうか。そういえばこの人は任務中でも怪しげな本を読んでいたりするのだといつかナルトが言っていた。イルカのような平凡な中忍には思いもよらないような思考回路をしているのかもしれない。
しかし、それを今発揮されても困るのだ。宴会場ではきっとアオバが一人で四苦八苦しているはずだ。
「俺、もう戻らないと……」
壁とカカシの間をすり抜けてしまおうと右に身体をずらしたとき、いきなりぐっと腕を掴まれた。思いもよらないことに「え」と間抜けな声が出る。
「イルカ先生」
「はい」
カカシは眠たげな目でイルカを見据えたままだ。掴んでくる手に力が入る。骨が軋みそうな力にイルカが顔を顰めた時、カカシが口を開きーーー
「あれっ、イルカこんなとこに居たのかよ」
がらりと引き戸が開き、見知った中忍が入ってくる。と、カカシの手から力が抜けた。イルカはその中忍に気づかれないようぱっと手を引いて、カカシの脇をすり抜けた。
「ああ、ちょっとな」
「アオバさんが探してたぜ?早く行ってやれよ」
「今行くよ、ありがとな」
礼を言われた中忍が、不思議そうな顔をしながらカカシに一礼しているのを目の端に捉えながら、イルカは半ば逃げるように厠を後にした。
廊下を小走りに戻った広間は宴もたけなわといった様子で、最初は上忍と中・下忍に分かれていた席もごった煮のようになり、綱手でさえ年若い忍の輪に入り飲み比べをしている有様だった。その周りに転がる酔いつぶれた屍共を送り届けるのは誰になるのかと肩を落としつつ、立ち働くアオバに声をかける。
「すみません、遅くなりました」
「お前どこまで行ってたんだよ、まあいいけどさぁ」
重ねて詫びて、アオバが手に抱えていた空き皿を受け取る。廊下に置かれた笊に皿を置けば、店員がまとめて下げていってくれた。
ふう、と座ったアオバの前にはジョッキに並々と入ったウーロン茶が置かれていた。イルカのものは半分に減ったまま、氷がすっかり溶けてしまっている。
「押し付けちゃってすみませんでした」
「いいよ、手伝ってくれる奴もいたし」
「ああ、コテツとかですか?」
準備段階から色々と手伝ってくれていた仲間の名前を出したが、アオバは首を振った。
「違ぇよ。あいつイビキさんに呼び出されて先に帰ったぜ」
「え、じゃあ」
ん、とアオバが顎をしゃくる。その先にはやはり、ライドウの姿があった。壁を背にして、見慣れない上忍らしき男と何か話しているようだ。
「へえ」
イルカが呟くと、アオバは「何だよ」と不機嫌そうになる。
「いや、いつの間に仲直りしたのかと思って」
「別に喧嘩なんかしてねぇし。俺があっちこっちに呼ばれてたから不憫に思ったんだろうよ」
「はぁ、そうですか」
はぁって何だよ、と言うアオバはイルカが戻ってきた時よりも随分不機嫌そうだ。何かまずいことでも言ったのだろうが、何が琴線に触れたのかイルカには分からなかった。
そうこうしている内にまた酒を運んだり皿を下げたりしている間に、宴はお開きの時間になった。綱手による一本締めが広間に響き渡る。
そういえばあれきりカカシの姿を見ていない、と気づいたのは、皆が去った後の宴会場で眠りこけた男たちの介抱をしている時だった。
酔いつぶれた忍たちをどうにか自宅が同じ方向の者に預けて、店を出たのは宴がお開きになってから半刻もした頃だった。
アオバと共にうんと伸びをして、互いの肩をどちらともなく叩く。
「お疲れさん」
「ありがとうございました、アオバさん。あなたが居て下さらなかったらどうなっていたか」
「いいよ、こんなの一人じゃ無理だろ」
疲れを滲ませながらもははっと快活に笑う姿に、改めて良い人だなと思う。特に今日は、アオバが居なければ途中で場が混乱していたかもしれない。
「じゃ、俺帰るわ」
アオバが片手を上げる。
「はい、また明日」
同じ様に片手を上げたとき、アオバの手の向こうに人影が見えた。建物の陰になっていて気づかなかったのか、相手の気配の消し方が上手だったのか。
ゆっくり近づいてきた相手に、アオバが振り向き一歩後ずさる。厠でイルカが別の男相手にそうしたように。
上げたままだったアオバの手を、その男が取った。
「行くぞ、アオバ」
「ライ、ドウ」
思わずといった風に名前を呼んだアオバの声にはっとして、イルカがライドウに一礼する。
「今日はありがとうございました!」
ライドウは「おう」と一言だけ返し、イルカが頭を上げるのも待たず、アオバの手を掴んだままずんずんと歩き出す。アオバは引っ張られ足を縺れさせながら、ちら、とイルカを振り返ると、空いた片手で拝むようなポーズを取った。
それが何かの謝罪なのか、それとも口止めを意味するのか。イルカはしばらく茫然と二人の後ろ姿を眺めていた。
その姿が角を曲がって見えなくなった頃ようやくはっとして、斜め掛けにしたカバンをぎゅうと掴んだ。
何だか、見てはいけないものを見てしまったような気がする。
アオバは普段の冷静な様子と違って慌てていたし、何なら酒を飲んでもいないのに頬が赤かったような気がする。ライドウなんて、ちょっと怒ってはいなかったか。アオバによれば喧嘩はしていないというし、機嫌を損ねるとしたら宴の世話役を手伝わせたこと以外にないけれど、きっと原因はそれじゃない、んじゃないだろうか。
はー、とため息をついて踵を返したとき、何とは無しに見た前方、一番見つけたくなかった影が視界に映り込んだ。
剥き出しのつま先。
黒いサンダルと対比するように真っ白いそれが、一歩一歩近づいてくる。
ポケットに両手を突っ込んで、肩を落として、だるそうに。
一見覇気の無さそうに見えるその姿が、実は一分の隙も無いことに忍なら誰でも気づくであろう。
「一体いつまで待たせるんですか」
イルカから一歩離れた場所で立ち止まり、カカシが口を開く。
「お待たせしていたつもりはありませんが」
「何言ってるの。それともやっぱ、鈍いのかねぇ」
鈍いと言われてカチンときたが、カカシと言い合う気は無かった。厠でのことと言い、機嫌の悪い上忍に絡まれるのは御免だ。
「俺、帰りますので」
一歩踏み出そうとすれば、「だめだよ」と今度は肩を掴まれた。いや、掴まれたというよりも軽い。少し触れられているだけなのに、まるで縛られているかのように身じろぎすらできない。
「それは無いでしょう。あなたが出てくるまでずっと待っていてあげたのに」
「ですから、待っていてくれなどと頼んだ覚えはありませんっ」
「ああ、怒ったの。じゃあいいよ、俺が勝手に待ってたの。一緒に帰りたくて。ねえ、それならいいでしょう?」
目を細めたカカシが、急に声音を柔らかくする。
肩を解放され、イルカは知らずしていた緊張を緩めた。
カカシの理論は全く分からないが、下手に刺激しない方がよさそうだ。
「勝手に、なさってください」
夜も更け人通りのない道を、二人並んで歩いた。カカシの足音はサクサクと軽く、わざと音を立てていることが知れた。音を立てずに歩くことに慣れすぎているのだろう。
イルカは反対にずんずんと道を踏み鳴らして歩く。何なら走って帰りたいくらいだ。そんな様子を、隣でカカシが笑う。
「イルカ先生、やっぱり怒っているみたい」
くくっと笑われ、カカシを睨みつける。
「誰のせいだと思ってるんです」
「俺の、せい?」
だったら嬉しいな、と言ったカカシが、イルカの腕をくい、と引いた。
あ、と思った時には狭い路地に引き入れられていた。トタンの壁に背中が当たる。
「なに……っ」
叫びかけた口が、手甲を嵌めた手のひらに塞がれる。肘で肩を押され、身動きがとれない。壁に縫い付けられたも同然だ。さびついたトタンのざらりとした感触がやけに生々しくこの状況を伝えてくる。
「大丈夫、痛いことはしませんよ」
カカシの顔が、眼前にある。眠たげにぼんやりとしていた目は爛々と光り、獲物を目の前にした獣を思わせた。イルカは本能的に背筋をぶるりと震わせる。
「イルカ先生」
耳に届く声すら、一段低い。
「どうしてアオバが何も食べなかったか教えてあげましょうか」
急にアオバの名を持ち出され、訳も分からず混乱する。そんなイルカをよそに、カカシは楽し気に言葉を紡いだ。
「あいつ、これからライドウとセックスするんですよ」
セックス。頭の中で宙に浮かんだ言葉が実像を結ぶまで、一瞬の間があった。そして、その意味を捉えたイルカの顔に朱が走る。
「入れられる側はね、中に何にも入ってない方が良いから」
空っぽにしておきたかったんでしょうね、と言うカカシが、人差し指を口布に引っ掛けた。そうして、ゆっくりとそれが引き下ろされる。
白い肌が、高い鼻梁が。薄い唇、それを彩るかのような、艶黒子。
機密だとさえ噂されたその素顔が、イルカの目の前に晒された。
「イルカ先生も同じですね」
驚きに目を見張るイルカの、ベストの下にカカシの手が潜ってくる。アンダーの上から下腹をぐ、と押され、思わずびくりと震えた。
「ここ、何にも入ってないでしょう?」
カカシの、薄い唇の端が持ち上げられる。
腹を押されただけなのに、そこからずくずくと疼きに似た何かが全身へと広がっていく、感覚。足が震えそうになる。崩れ落ちそうに、なる。
「ねえ、俺達もしましょうか」
顔を寄せたカカシが、耳元で声を落とした。
「悪くないと、思いますよ」
ぬめったものが、イルカの耳朶を食む。
思わず瞑った瞼の裏、ライドウに連れられて去って行くアオバの後ろ姿がよぎる。これから、二人はまぐわうのだとカカシは言った。さっきまであんな普通の顔をして、話していたのに。彼らがそういう関係だったなんて知らなかった。
耳の孔にカカシの舌が押し入ってくる。喉の奥に悲鳴を飲み込んで、膝に力を入れた。本当に、くず折れてしまいそうだった。
「カ、カカシ、先生」
口を封じる手の平の下、どうにか絞り出した声は、酒で焼けたかのように掠れていた。カカシがイルカの首元から顔を上げる。やっと解放された耳が、空気に触れて冷たい。
間近で見つめてくる瞳は濃灰。銀色の髪が、路地から差し込む街灯の光に鈍くきらめいていた。
「随分と、良いそうですよ。男同士は」
イルカの口を覆っていた手が離れる。つ、と頬にカカシの指が伸びた。そのまま、ベストの上から胸、脇腹を辿って腰に回される。尻を遠慮なく鷲掴みにされ、「あっ」と声が漏れた。取り返しのつかないそれに、唇を噛む。
「可愛い声……ねぇ、もっと聞かせてくれませんか」
ぐ、と腰を引き寄せられ身体が密着する。抵抗しなければと思うのに、身体が思うように動かない。引き剥がそうと伸ばした手は、ほとんど添えられるだけだった。その手をじわり、と背に回せば、カカシが目を細めた。
途端に、視界が揺らぐ。浮遊感に目を瞑り、イルカは目の前の男にぎゅうとしがみ付いた。強く抱き返され、今度こそ完全に思考が黒に落ちた。
狭い路地に風が舞う。誰も居ない土の上、木の葉がひらりと一枚落ちた。
End
木の葉で一番広いその店では、三つある広間をすべて繋げての大宴会が開かれていた。
主催は五代目火影であるところの、綱手だ。
木の葉崩しからの復興にひとまずの目途がつき、休む暇もないほど酷使した里の忍びを労うためと銘打ったこの宴はその実、里の予算で酒を飲みたかっただけでは無いか、とは内勤の忍の共通認識であった。
うみのイルカもその一人だ。
アカデミーの教師として働く傍ら、任務受付所にて任務の振り分けや受理を行うイルカは、綱手と共に受付へ座していることが多い。
好きな賭け事も制限され、里の長老からその振る舞いを叱咤され、鬱憤が溜まっているのは火影も働き詰めの忍も同じだと、付き人であるシズネとのやり取りから日々感じていた。
だからイルカは綱手が突然この宴を思いついた時も、その幹事をイルカに振ってきた時も、内心面倒だなとは思っていても表面上は快くその任を引き受けたのだった。
里の忍にほぼ全員声をかける形での酒宴は珍しい。三代目の時代にも滅多に無かったことだ。当然、任務中の忍や結界班、他にも看守や哨戒中の忍など、すべての忍が参加できるものでは無い。
賑やかな場が好きな者にはできるだけ参加させてやりたいと、各班に打診してシフトの調整をしたり、面識のある外勤の忍には個人的に声をかけてみたりと中々に骨の折れる作業に一か月ほどを費やし、やっと実現したのが今日のこの日だったのだ。
もちろん一人ではとても手に負えなかったから、四苦八苦するイルカを見た綱手がその時ちょうど近くにいたという理由で特別上忍のアオバにも声をかけてくれ(彼にとっては不運なことに)苦労を共にすることができた。アオバには外勤の忍との折衝においてその交渉力を遺憾なく発揮してもらい、参加者リストが出来上がる頃には戦友とも言える間柄になっていた。
そのアオバと共に大広間の入り口側に膝をついて、追加注文を取ったり運ばれてきた品を店員と共に配って回るのが今日のイルカの主な仕事だった。普段は飲み会ともなると年若い者が率先して下働きをするのだが、今日は無礼講ということもあってその任を一手に二人が引き受けていた。
発起人であるところの綱手は上座でとうにできあがっている。
参加を表明していた者のうち九割近くは顔を見せていた。忍という職業柄でいえば上々の出席率ではないだろうか。これだけ賑やかだと綱手も宴を開いた甲斐があるというものだろう。
ただ賑やかに騒ぐだけでなく、里の復興を皆に浸透させるのが狙いでもあったのだろう。これだけ忍が集まって飲んでいれば目立つし、里の住人にもそんな暇があるほど忍の手が空いたのだ、里が落ち着いてきたのだ、と思わせることができる。
外患が去ったわけでは無いし、噂に聞くところによれば”その時”は確実に迫ってきているのだけれど、一時的にでも里が落ち着くのは良いことだ。
「おい、イルカ、お前も少しは飲めよ」
アオバにそう声をかけられる。
「何言ってんですか、まだまだでしょう。アオバさんこそちょっとは腹に入れた方が良いんじゃないですか」
「いや、俺は良いんだ。あんま食わない方が良いから」
ちらり、とアオバがサングラス越しに視線を上げる。その先に、頬に斜めに火傷の跡が走る特別上忍の姿を認めた。だがそれがどういう意味を成すのかイルカには分からず、「まぁ俺もいいですよ」と言うに留めた。アオバには時々そういう、意味深なフリをする所がある。件のライドウと親しいのは知っていたが、最近二人が大きな声で揉めているのを見たばかりだ。
「おーい、お代わりまだかー」
のんびりと、よく通る声に呼ばれてイルカは腰を浮かせる。
「俺ちょっと見てきます」
そう言い残し、忙しなく動く店員に紛れて厨房へ足を向けた。案の定通っていなかったオーダーを急ぎで注文し直し、宴席に戻る途中でふと尿意を思い出し厠へ立ち寄った。無造作に脱ぎ散らかされたスリッパをどうにか引っ掛け、小用の便器へ踏み出したとき
「あれ」
と後ろから声がかかった。
「イルカ先生、こんなところに居たんですか」
振り向いてみれば、銀色の髪の上忍がそこに居た。眠そうな目を片方だけ晒し、額宛てを斜めにかけ黒い口布で顔の半分を覆っている。言わずと知れた里の誇る上忍、はたけカカシその人だ。
「カカシ先生、いらっしゃってるとは存じてたんですが、ご挨拶がこんなところになっちまいましたね」
わはは、と笑いかけると、カカシもその目を弓なりに曲げて応えてくれる。
特に親しい付き合いでは無いが、イルカの教え子であるナルトを師として導いてくれた男である。一方的に食って掛かったこともあったが、謝罪も済ませナルトが里を出た今となってはただの中忍と上忍の間柄に過ぎない。
多忙なはずのカカシがこんな宴席に顔を出すとは意外だったが、端の方でちびちびと飲んでいる様子は知っていた。
「何か俺に御用でしたか」
隣り合って用を足しながら、それとなく口を開く。
カカシは少し躊躇うそぶりを見せ、
「いや、用ってものでは無いんですが」
と言ってちらりとイルカに視線を向けた。局所を剥き出しのままなのが何となく居心地が悪くてそそくさと身なりを整える。
「あなたはちゃんと食べてるのかなと思いまして」
カカシもまた下履きを整えながら、イルカと並んで手を洗う。意外と几帳面なところがあるようだ。
「いやぁ、俺は今日はいいんですよ、幹事ですからね。皆さんが楽しむお手伝いをするのが仕事です」
「……損な役回りですね」
「そうでもないんですよ、五代目の覚えは目出度くなるし、他の内勤連中にも恩が売れるし。結構打算的なんです、俺」
言って再び笑えば、カカシは今度はイルカを見ないまま、ふふ、と笑ったように見えた。口元が見えていれば、口角が少しは上がっていたのではないか。
「面白い人ですね、あなた」
「え?そうですかね、あははー……」
その後が続かない。カカシは何を言うでもなく、出口を塞ぐかのように立ち止まっている。彼がどいてくれないと、イルカは宴席へ戻ることができない。いや、厠から出ることもできないのに。
「あのー、カカシ先生」
声をかければ、今度はじぃ、と見つめられて思わず一歩後ずさる。
突然考え事でも始めたのだろうか。そういえばこの人は任務中でも怪しげな本を読んでいたりするのだといつかナルトが言っていた。イルカのような平凡な中忍には思いもよらないような思考回路をしているのかもしれない。
しかし、それを今発揮されても困るのだ。宴会場ではきっとアオバが一人で四苦八苦しているはずだ。
「俺、もう戻らないと……」
壁とカカシの間をすり抜けてしまおうと右に身体をずらしたとき、いきなりぐっと腕を掴まれた。思いもよらないことに「え」と間抜けな声が出る。
「イルカ先生」
「はい」
カカシは眠たげな目でイルカを見据えたままだ。掴んでくる手に力が入る。骨が軋みそうな力にイルカが顔を顰めた時、カカシが口を開きーーー
「あれっ、イルカこんなとこに居たのかよ」
がらりと引き戸が開き、見知った中忍が入ってくる。と、カカシの手から力が抜けた。イルカはその中忍に気づかれないようぱっと手を引いて、カカシの脇をすり抜けた。
「ああ、ちょっとな」
「アオバさんが探してたぜ?早く行ってやれよ」
「今行くよ、ありがとな」
礼を言われた中忍が、不思議そうな顔をしながらカカシに一礼しているのを目の端に捉えながら、イルカは半ば逃げるように厠を後にした。
廊下を小走りに戻った広間は宴もたけなわといった様子で、最初は上忍と中・下忍に分かれていた席もごった煮のようになり、綱手でさえ年若い忍の輪に入り飲み比べをしている有様だった。その周りに転がる酔いつぶれた屍共を送り届けるのは誰になるのかと肩を落としつつ、立ち働くアオバに声をかける。
「すみません、遅くなりました」
「お前どこまで行ってたんだよ、まあいいけどさぁ」
重ねて詫びて、アオバが手に抱えていた空き皿を受け取る。廊下に置かれた笊に皿を置けば、店員がまとめて下げていってくれた。
ふう、と座ったアオバの前にはジョッキに並々と入ったウーロン茶が置かれていた。イルカのものは半分に減ったまま、氷がすっかり溶けてしまっている。
「押し付けちゃってすみませんでした」
「いいよ、手伝ってくれる奴もいたし」
「ああ、コテツとかですか?」
準備段階から色々と手伝ってくれていた仲間の名前を出したが、アオバは首を振った。
「違ぇよ。あいつイビキさんに呼び出されて先に帰ったぜ」
「え、じゃあ」
ん、とアオバが顎をしゃくる。その先にはやはり、ライドウの姿があった。壁を背にして、見慣れない上忍らしき男と何か話しているようだ。
「へえ」
イルカが呟くと、アオバは「何だよ」と不機嫌そうになる。
「いや、いつの間に仲直りしたのかと思って」
「別に喧嘩なんかしてねぇし。俺があっちこっちに呼ばれてたから不憫に思ったんだろうよ」
「はぁ、そうですか」
はぁって何だよ、と言うアオバはイルカが戻ってきた時よりも随分不機嫌そうだ。何かまずいことでも言ったのだろうが、何が琴線に触れたのかイルカには分からなかった。
そうこうしている内にまた酒を運んだり皿を下げたりしている間に、宴はお開きの時間になった。綱手による一本締めが広間に響き渡る。
そういえばあれきりカカシの姿を見ていない、と気づいたのは、皆が去った後の宴会場で眠りこけた男たちの介抱をしている時だった。
酔いつぶれた忍たちをどうにか自宅が同じ方向の者に預けて、店を出たのは宴がお開きになってから半刻もした頃だった。
アオバと共にうんと伸びをして、互いの肩をどちらともなく叩く。
「お疲れさん」
「ありがとうございました、アオバさん。あなたが居て下さらなかったらどうなっていたか」
「いいよ、こんなの一人じゃ無理だろ」
疲れを滲ませながらもははっと快活に笑う姿に、改めて良い人だなと思う。特に今日は、アオバが居なければ途中で場が混乱していたかもしれない。
「じゃ、俺帰るわ」
アオバが片手を上げる。
「はい、また明日」
同じ様に片手を上げたとき、アオバの手の向こうに人影が見えた。建物の陰になっていて気づかなかったのか、相手の気配の消し方が上手だったのか。
ゆっくり近づいてきた相手に、アオバが振り向き一歩後ずさる。厠でイルカが別の男相手にそうしたように。
上げたままだったアオバの手を、その男が取った。
「行くぞ、アオバ」
「ライ、ドウ」
思わずといった風に名前を呼んだアオバの声にはっとして、イルカがライドウに一礼する。
「今日はありがとうございました!」
ライドウは「おう」と一言だけ返し、イルカが頭を上げるのも待たず、アオバの手を掴んだままずんずんと歩き出す。アオバは引っ張られ足を縺れさせながら、ちら、とイルカを振り返ると、空いた片手で拝むようなポーズを取った。
それが何かの謝罪なのか、それとも口止めを意味するのか。イルカはしばらく茫然と二人の後ろ姿を眺めていた。
その姿が角を曲がって見えなくなった頃ようやくはっとして、斜め掛けにしたカバンをぎゅうと掴んだ。
何だか、見てはいけないものを見てしまったような気がする。
アオバは普段の冷静な様子と違って慌てていたし、何なら酒を飲んでもいないのに頬が赤かったような気がする。ライドウなんて、ちょっと怒ってはいなかったか。アオバによれば喧嘩はしていないというし、機嫌を損ねるとしたら宴の世話役を手伝わせたこと以外にないけれど、きっと原因はそれじゃない、んじゃないだろうか。
はー、とため息をついて踵を返したとき、何とは無しに見た前方、一番見つけたくなかった影が視界に映り込んだ。
剥き出しのつま先。
黒いサンダルと対比するように真っ白いそれが、一歩一歩近づいてくる。
ポケットに両手を突っ込んで、肩を落として、だるそうに。
一見覇気の無さそうに見えるその姿が、実は一分の隙も無いことに忍なら誰でも気づくであろう。
「一体いつまで待たせるんですか」
イルカから一歩離れた場所で立ち止まり、カカシが口を開く。
「お待たせしていたつもりはありませんが」
「何言ってるの。それともやっぱ、鈍いのかねぇ」
鈍いと言われてカチンときたが、カカシと言い合う気は無かった。厠でのことと言い、機嫌の悪い上忍に絡まれるのは御免だ。
「俺、帰りますので」
一歩踏み出そうとすれば、「だめだよ」と今度は肩を掴まれた。いや、掴まれたというよりも軽い。少し触れられているだけなのに、まるで縛られているかのように身じろぎすらできない。
「それは無いでしょう。あなたが出てくるまでずっと待っていてあげたのに」
「ですから、待っていてくれなどと頼んだ覚えはありませんっ」
「ああ、怒ったの。じゃあいいよ、俺が勝手に待ってたの。一緒に帰りたくて。ねえ、それならいいでしょう?」
目を細めたカカシが、急に声音を柔らかくする。
肩を解放され、イルカは知らずしていた緊張を緩めた。
カカシの理論は全く分からないが、下手に刺激しない方がよさそうだ。
「勝手に、なさってください」
夜も更け人通りのない道を、二人並んで歩いた。カカシの足音はサクサクと軽く、わざと音を立てていることが知れた。音を立てずに歩くことに慣れすぎているのだろう。
イルカは反対にずんずんと道を踏み鳴らして歩く。何なら走って帰りたいくらいだ。そんな様子を、隣でカカシが笑う。
「イルカ先生、やっぱり怒っているみたい」
くくっと笑われ、カカシを睨みつける。
「誰のせいだと思ってるんです」
「俺の、せい?」
だったら嬉しいな、と言ったカカシが、イルカの腕をくい、と引いた。
あ、と思った時には狭い路地に引き入れられていた。トタンの壁に背中が当たる。
「なに……っ」
叫びかけた口が、手甲を嵌めた手のひらに塞がれる。肘で肩を押され、身動きがとれない。壁に縫い付けられたも同然だ。さびついたトタンのざらりとした感触がやけに生々しくこの状況を伝えてくる。
「大丈夫、痛いことはしませんよ」
カカシの顔が、眼前にある。眠たげにぼんやりとしていた目は爛々と光り、獲物を目の前にした獣を思わせた。イルカは本能的に背筋をぶるりと震わせる。
「イルカ先生」
耳に届く声すら、一段低い。
「どうしてアオバが何も食べなかったか教えてあげましょうか」
急にアオバの名を持ち出され、訳も分からず混乱する。そんなイルカをよそに、カカシは楽し気に言葉を紡いだ。
「あいつ、これからライドウとセックスするんですよ」
セックス。頭の中で宙に浮かんだ言葉が実像を結ぶまで、一瞬の間があった。そして、その意味を捉えたイルカの顔に朱が走る。
「入れられる側はね、中に何にも入ってない方が良いから」
空っぽにしておきたかったんでしょうね、と言うカカシが、人差し指を口布に引っ掛けた。そうして、ゆっくりとそれが引き下ろされる。
白い肌が、高い鼻梁が。薄い唇、それを彩るかのような、艶黒子。
機密だとさえ噂されたその素顔が、イルカの目の前に晒された。
「イルカ先生も同じですね」
驚きに目を見張るイルカの、ベストの下にカカシの手が潜ってくる。アンダーの上から下腹をぐ、と押され、思わずびくりと震えた。
「ここ、何にも入ってないでしょう?」
カカシの、薄い唇の端が持ち上げられる。
腹を押されただけなのに、そこからずくずくと疼きに似た何かが全身へと広がっていく、感覚。足が震えそうになる。崩れ落ちそうに、なる。
「ねえ、俺達もしましょうか」
顔を寄せたカカシが、耳元で声を落とした。
「悪くないと、思いますよ」
ぬめったものが、イルカの耳朶を食む。
思わず瞑った瞼の裏、ライドウに連れられて去って行くアオバの後ろ姿がよぎる。これから、二人はまぐわうのだとカカシは言った。さっきまであんな普通の顔をして、話していたのに。彼らがそういう関係だったなんて知らなかった。
耳の孔にカカシの舌が押し入ってくる。喉の奥に悲鳴を飲み込んで、膝に力を入れた。本当に、くず折れてしまいそうだった。
「カ、カカシ、先生」
口を封じる手の平の下、どうにか絞り出した声は、酒で焼けたかのように掠れていた。カカシがイルカの首元から顔を上げる。やっと解放された耳が、空気に触れて冷たい。
間近で見つめてくる瞳は濃灰。銀色の髪が、路地から差し込む街灯の光に鈍くきらめいていた。
「随分と、良いそうですよ。男同士は」
イルカの口を覆っていた手が離れる。つ、と頬にカカシの指が伸びた。そのまま、ベストの上から胸、脇腹を辿って腰に回される。尻を遠慮なく鷲掴みにされ、「あっ」と声が漏れた。取り返しのつかないそれに、唇を噛む。
「可愛い声……ねぇ、もっと聞かせてくれませんか」
ぐ、と腰を引き寄せられ身体が密着する。抵抗しなければと思うのに、身体が思うように動かない。引き剥がそうと伸ばした手は、ほとんど添えられるだけだった。その手をじわり、と背に回せば、カカシが目を細めた。
途端に、視界が揺らぐ。浮遊感に目を瞑り、イルカは目の前の男にぎゅうとしがみ付いた。強く抱き返され、今度こそ完全に思考が黒に落ちた。
狭い路地に風が舞う。誰も居ない土の上、木の葉がひらりと一枚落ちた。
End
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