「せんせー、さよならー!」
「おう! 気をつけて帰れよ」

履物をつっかけて転がるように玄関から出ていく生徒を見送りながら、うみのイルカは傾き始めた初秋の日差しに目を細めた。
まだ暑さは残るが、そこかしこに秋の気配を感じるこの頃だ。

手洗い口の、閉まり切っていない蛇口をきゅっと捻り、イルカは職員室へ向けてゆっくり階段を昇る。
今日は残業の予定もなく、本部での受付業務のシフトも入っていない。もっとも、火影が代替わりしてからイルカが受付に座ることはめっきり減っていた。新しい火影の、働き方改革とやらによるものだ。
その、新しい――六代目火影、はたけカカシの横顔を思い浮かべ、ぶるぶると頭を振る。意味なく鼻傷をぽりぽりと掻きながら、イルカは頬に血が集まるのを感じていた。

イルカがカカシと恋人同士になって、ひと月が経つ。
カカシに口説き落とされる形で了承した、という体ではあるが、実際はイルカもずっと彼のことを想っていたのだ。
里の父である火影と一介の教師にすぎない自分では釣り合いが取れないだろうと、一生胸に秘めていくはずだったところを、カカシからの猛アプローチにより押し切られたのである。

今までそんなそぶりも無かったのに何故と聞けば、カカシ曰く、イルカが結婚すると誤解して焦ったのだそうだ。身に覚えのない縁談話に首を捻っていたが、後で聞いたところによると、どうやら元教え子たちによる裏工作が働いていたらしい。
焦れったくて見てられなかったのよ、と言ったのはサクラだったかいのだったか。一回りも下の若者たちをやきもきさせるほど分かりやすかっただろうかと赤面ものだが、そのきっかけが無ければずっと行動に移せずにいただろう。今では感謝している。

週次の職員会議を終え、少しの書類を鞄へつめてアカデミーを出る。使い込んだ生成りの鞄を斜めに掛けて、さっき登った階段を足早に駆け下りた。
運動場を門に向かって歩きながら、自然と見上げたのは火影室だ。里が見渡せる、本部棟の一番上。
大きな窓を背にして座っているはずの恋人は、イルカが帰路につく今も書類とにらめっこしているのだろう。

「……無理だろうなぁ」

ぽつりと零れた言葉に苦笑が浮かぶ。
絶対行くから待っててよ、と、必死の形相で彼が言ったのは一昨日のことだったか。用があって訪れた火影室で、気を利かせたらしいシカマルの配慮でほんの僅か二人きりになった時だ。
カカシの誕生日を一緒に祝いたいと何の気なしに呟いたイルカに対し、目を見開いていた彼の表情が忘れられない。ふたつ揃った濃灰色の瞳が、驚きと焦り、そして確かな歓喜を浮かべてこちらを見つめていた。
里の開発ラッシュで、ただでさえ忙しい時期に時間を割いてもらうのも申し訳ないとすぐ取り下げたイルカに対し、カカシが言ったのが『絶対行く』というあの言葉だ。
カカシにだって休日はある。誕生日当日でなくとも祝いはできるだろうと宥めたが、頑として聞き入れられなかった。
すぐシカマルが戻ってきたためにそれ以上話すことはできなかったが、きっとカカシの気持ちは変わっていないのだろう。
思い返しているうち、商店街に差し掛かった。夕刻、賑やかな人通りを縫って訪れたのは生花店だ。

「あら、イルカ先生いらっしゃい!」
「やあ久しぶり。いの、元気にしてたか?」
「もちろんよ。今日は何を?」
「うーん……あのな、誕生日の人に贈りたいんだが、どんな花がいいのか分からなくてな」
「あら! そうなの! やだもう、早く言ってよ」

数年前までは可愛らしい看板娘だったのが、今ではすっかり店の主といった貫禄の元教え子がにこりと笑う。
この元教え子たちの間でイルカとカカシの関係は周知の事実と同時に暗黙の了解であるらしく、相手の名を出さずともいくつかの案を出してくれた。

「これなんてどうだろう」

いのがサンプルとして見せてくれた、オレンジ色を基調とした花束の写真を指す。しかし、当の店主は顎に手をやり、首を捻ってしまった。

「それも素敵なんだけど、先生、いっそあれはどうかしら!」

あれ、と指された先にあったのは紫色の小花が集う、小ぶりの鉢植えだった。いのの字で、『木立紺菊』と名が添えられている。確かに可愛らしい花だが、贈答用といった雰囲気ではない。

「いいけど、花束じゃないのか」
「まあ、普通お誕生日に渡すっていったら花束をお勧めするんだけどね。渡す相手が相手でしょう。……先生、これは女の直感なんだけど、きっとあの人はこういうものの方が喜ぶと思うわ」
「そうか?」
「そうよ。花束ってきれいだし華やかだけれど、いつかは枯れるでしょう? そりゃあ、いろんな技術を使えば保存しておくこともできるわよ。でも、それだと“生”では無くなっちゃうわけ」
「な、なま」
「ええ。先生たち中々会えてないんでしょう? いいのよ、みなまで言わなくて。分かるわ。恋愛って最初が一番楽しいものよ。それなのに、近くにいるのに会えない。辛いわよね。だからこそ、相手からのプレゼントを、しかも息吹を感じるものをいつも側に置けたら良いと思わない? その点この鉢植えなら場所も取らないし世話も簡単、何より香りが少ないの。嗅覚が敏感な犬遣いさんにはますますお勧めよ。しかも――」
「ちょ、ちょっと待ってくれ、いの」
「あら何かしら」
「いやあ、やっぱり迷惑じゃないかな、鉢植えだなんて。カカ――ンンッ、あの方は忙しいだろうし、簡単とはいえ世話もしなきゃならないだろう? それに、残っちまうものは、ほら、なあ」
「やだ。もしかして形が残るものは迷惑とか思ってる? 先生、言わせてもらいますけどそれは間違いよ。カカシせ――じゃなくて、あの人がイルカ先生からもらったものを迷惑だなんて思うわけがないじゃないの。あたし達見ちゃったんだから。イルカ先生昔、体術の授業のあと髪紐無くしたって言って探してたことがあったでしょ? あたし達が先生のお誕生日にプレゼントした、紺色で細かい組紐の。あたし達随分ブーイングしたわよね。あの髪紐、どこにあったと思う?」
「え? いや、どこだろう」
「――どうしてそういうところだけ鈍いのかしら……まあいいから、女の勘を信じてよ。ね? 先生」

じゃあそういう訳で、と小さな鉢植えをみるみる内にラッピングしていく元教え子に圧倒されつつ、イルカは言われるがまま財布を出し、予定より少ない額をトレイに乗せた。

「これ、おまけね」

鉢植えと一緒に、オレンジ色の小ぶりの花束が渡される。

「悪いよ、この代金も払わせてくれ」
「いいのよ。また記念日が増えたらうちを使ってちょうだい」
「商売上手だなぁ」
「うふふ。ね、先生、木立紺菊の花言葉を教えておくわ。この紫色にはね、『恋の勝利』って意味があるのよ。素敵でしょう?」
「えっ、こ、恋って、お前」

たじろぐイルカだが、微笑んだままのいのに店の外まで押しやられてしまった。

「まいどありー!」

弾むような声に背中を押され、首を竦めて人通りに紛れ込む。
途中、いくつかの店に立ち寄って思いつく限りの祝いの品を揃えて帰宅した頃には、空が暗くなりかけていた。
戦禍を経て建て替えられたアパートで、ほっと息をつく。
いつも商店街で買い物をしている時にはなんとも思わないのに、何だか今日は行く先々で意味深な視線を向けられているようで落ち着かなかった。
もちろんその殆どはイルカの勝手な思い込みなのだろうが、それほど自分が浮足立っているのだと思うと、知らず顔が熱くなる。

ちゃぶ台に置いた鉢植えと、ささやかな花束。ホールケーキを買う勇気などなく、二つだけ買った苺のケーキ。カカシが食べたいものを選べるように用意した、刺し身とステーキ肉をそれぞれ冷蔵庫へ仕舞った。
装備を解いて座布団へ胡座をかくと、途端に疲れが押し寄せてくる。
大したことはしていないはずなのに、誰かのために物を選ぶことが久しぶりで、脳味噌の普段使わない場所をフル回転させたかのような気分だ。

ちゃぶ台に突っ伏せば、ひやりとした天板が頬に気持ち良い。
視界に入る鉢植えは、金と銀のリボンで華やかに飾られ、どこか居心地が悪そうだ。
なんだかあの人に似ているなと思い、口元が緩んだ。

「恋の勝利、かあ……」

なんとも恥ずかしいフレーズだが、どことなくしっくり来るのが不思議だ。
とりあえず、今日の仕事に勝利してくれねぇかななどと呟くイルカは、この小花がカカシと住む庭を愛らしく彩る未来をまだ、知らない。