カカイルエアイベ「忍びきれない恋だから」開催にあわせて書いたお話。


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「うっ……うっ……」
「おい、そろそろ泣き止め。辛気臭ぇ」
「まぁいいじゃないの。こいつが泣くなんてめったに見られないんだから」
「我が永遠のライバルよ! 泣くとは情けないぞ! 私と勝負だ!!」

喧騒の中、居酒屋の一角で机に突っ伏すのは里の看板忍者、はたけカカシだ。
何故か泣き通しの彼を取り囲むのはそうそうたる上忍、猿飛アスマ、夕日紅、マイト・ガイ。

たまたま同じ居酒屋に居合わせてしまった忍びや市民たちは、最初あのはたけカカシが泣いているという事実に驚愕した。いったいどんな理由で、と興味津々な視線を向けたところで、アスマにひと睨みされてしまえば詮索する意欲も萎んでしまった。
今は早く出て行ってくれないものかと願いながら、揃って空騒ぎをしている。

「うぅっ……だって、また声かけられなかった……目の前にいたのに……」
「お前ぇがおっそろしい顔して突っ立ってりゃ誰だって避けるぜ」
「そうねぇ、あんた緊張しすぎてものすごい顔になってたわよ」
「そうか! 馬鹿だなカカシは!!」
「お前に言われなくなーいよ」

ピシッとカカシが弾き飛ばした枝豆を指先で摘まみ取ったガイが、くれるのか! と言いながら口の中へ放り込む。並みの上忍であれば額に痣を作るほどの威力があったはずの豆は、ガイの口の中でもぐもぐと咀嚼された。

「でも渡せたんでしょう? 手紙は」
「何だ、お前手紙なんか書いたのか。嘘だろ」
「…………机の上に置いてきた」
「何してんの、面と向かって渡しなさいよ。でもまあ良かったじゃない、ひとまず目標は達成よ」
「でも、来てくれないかもしれないでしょ」
「何だ! 話がよく見えないな! やはり勝負するかカカシよ!」

狭い通路で器用に戦闘体勢を取るガイを、アスマが席へと引きずり戻した。アスマ自身、周囲の怯えた視線が痛いと思うような性質では無いが、万一皿でも割れば財布が痛む。
店員が素早く運んできた焼き魚を目の前に置かれたガイは、いったん食事に集中することにしたようだ。

「で、何て書いたんだ。その手紙ってやつに」
「本日戌の刻、酒酒屋に来られたし……」
「何それ、果たし状じゃないんだから。好きですとか書いときなさいよ」
「やだ。そういうのは直接言うものなの」
「まぁたどっかのエロ本に毒されてんのかお前」
「何ッ! 果たし状だと! 俺を差し置いて誰と決闘するんだカカシィ!!」
「おーい酒じゃんじゃん持ってきてー!」

テーブルが埋まるほどのビールでガイを黙らせ、紅とアスマは旧友の手際の悪さに呆れかえった。
この男はひとたび戦いとなれば驚くほどの才気と判断力を発揮するくせに、自分のこととなるとこちらが呆れるような真似をする。
一年以上も前から抱えた恋心を相談されるのももう飽きた。早いとこくっつくか玉砕してしまえと告白を急かしたのに、この体たらくとは。

「それにしたって、他に書きようがあるでしょう。イルカが怯えて来てくれなかったら意味ないじゃないの」
「そもそも手紙なんてまどろっこしいことしてねぇで、とっとと手出しちまえばいいだろうがよ。夜の千人斬りの異名はどうした、ああ?」
「うう……っだって、恥ずかしいじゃない……!」
「もういいから今からイルカの家に行ってきなさいよ、場所くらい調べてあるんでしょ?」

カカシが突っ伏したままこくりと頷く。
だが、付き合いの長い紅はその微妙な間にあることを感じ取ってしまった。
鮮やかな朱を引いた唇が、ひく、と戦慄く。

「……ちょっと待って、あんたまさか覗きなんてしてないでしょうね」
「…………」
「嘘だろ、おい」
「い、いっかい、だけだもん……」

弱弱しく人差し指を立てるカカシに、その場がしん、と静まり返る。
聞き耳を立てていたらしい周囲も同様に黙ってしまったため、あれほど騒がしかった店内が静寂に包まれた。

その時、からから、と音を立てて酒酒屋の引き戸が開く。

「あのー、今日お休みですか……?」

のれん越しに耳慣れた声が聞こえ、店内の全員が入り口に視線を向けた。

「えっ、満席? なんでこんなに静か……あ、カカシさん」
「どうも、イルカ先生」

次に全員の視線が向かったのは店の奥、さっきまで机に突っ伏していたはずの男だった。
一言で店内をどん引かせた男、はたけカカシは何事も無かったかのように机に片肘をついて座り、イルカに向かって片手を上げている。

「よかった、間違ったかと思いました。……ってあれ、やけに静かですね、何かあったんですか?」
「いえいえ、何も。ねえ」

ちら、とカカシが周囲に視線を走らせると、固まっていた周囲がはっとしたように視線を外し、元通り会話を始めた。
途端、店内は元のざわめきを取り戻す。

一瞬額当てに指を添えたカカシが何をしたのか、理解できたのはカカシと同じ卓を囲む三人だけだっただろう。
眉を寄せて胡乱な視線を向けてくる三人を無視して、カカシは入り口に立つ男を手で招いた。
いきなり賑やかになった店内を縫うように、イルカがカカシの元へと向かってくる。

「あの、お手紙ありがとうございました」
「いいえ、こちらこそ来てくれて嬉しいです。ここは騒がしいので、よかったら他の店に移りませんか」
「え、でもいいんですか、アスマさんたちとお楽しみ中だったんじゃ」
「いいんですよ、話は終わりましたから」
「そうね、いいのよイルカ。行ってちょうだい」
「カカシ、勘定お前持ちな」
「男になれよ、カカシ……!」

うんざりした様子の紅とアスマ、そして何故か泣き出したガイに一礼するイルカの背を、カカシがそっと押した。
店を出る際にもぺこりと会釈を寄越したイルカに手を振り、紅はひと際大きなため息を吐く。

「あいつ、昔はあんなんじゃなかったわよねぇ……」
「いや、案外元からああいう奴だったんじゃねえの。知らねぇけど」
「愛とは人を強くするものだ! カカシが強くなるなら俺は良いと思う!」
「ガイ、お前はどうなんだよ。愛ってやつは」
「うむ、俺に勝ったら教えてやろう! 勝負するか、アスマ!」
「やめとくわ、かったりぃ」
「まぁ、別に知りたくないわね」
「何だと、二人とも冷たいじゃないか!」

周囲の望み空しく、異様な存在感を発する上忍三人はその後も店が閉まるまで酒を酌み交わしたのだった。


◇◇◇


「本当に良かったんですか。俺、邪魔しちまったんじゃ」
「いえいえ、いいんですよ。あなたが来るまで話し相手になってもらっていただけなので」
「そうですか、なら良かった」

にこり、と優し気な笑みを向けられ、カカシは心の中で鼻血を出した。鼻血と言えば目の前の男、うみのイルカの専売特許のようなものだが、カカシも彼を目にするたび心の中では流血騒ぎだ。
笑顔が可愛い、声が良い。何より性格が好ましい。
初めて出会った時、既に、胸の中にむずむずとするようなものが走ったのだ。
男も女も味わってきた自分だが、積極的に誰かと関係を持ったことは無く、これからも無いものだと思っていた。
それなのに、イルカを見かけるたびにくすぐったくなるような暖かな思いが胸に積み重なり、しばらく困惑したものだ。

自分と何もかも違うのが良かったのだろうか。
熱血漢で、噂によると涙もろいらしい。ナルトから聞く彼の話はいつもカカシの心をほんわかと温かくさせた。
教え子との関係のせいもあるが、簡単に手を出して良い相手ではない。分かっていても、いや、分かっているからこそ、思いを止めることができなかった。
気付けば一年以上、遠くから彼を見つめる日々が続いている。
それも、今夜で終わりになるはずだ。

一度自宅へ戻ってから来たというイルカは、珍しく私服だった。
黒のハーフパンツに揃いのジャケットも袖が短く、蒸し暑い夜にはちょうど良いのだろう。
カカシは元々汗をかきづらい体質のうえ、鍛錬でその体質を強化しているためにこの程度の蒸し暑さには何とも感じない。

だが、問題はこのじめじめとした空気では無かった。
イルカの、ジャケットの下だ。
おそらくタンクトップなのだろう白のそれは襟が大きくあいていて、ほどよく鍛えられた胸元が見えてしまっている。
元からそういうデザインなのか、それとも洗濯のし過ぎでたるんでしまったのかは分からないが、視線を逸らすのにも一苦労だ。
しかも、そのたるんだ生地の隙間から彼の動きに合わせてちらっ♡ちらっ♡と彼の、ち、ち、乳首が時おり見えているではないか。

(父さん……)

カカシは心の中で天を仰ぐ。

(父さん、俺は今、神秘を見ました……)

遠い昔に亡くした父が、顔も覚えていない母と共に手を振ってくれているような気がした。

イルカの肌は全体的に浅黒い。日に当たっていない胸元ですらそうなのだから、生まれつきなのだろう。生来色の白い自分とはずいぶん違う。
その肌の上で、少し濃い色の乳首がぷっくりと膨らんでいる様はどう考えても目の毒だ。
今すぐジャケットのボタンを全部閉めてやりたい衝動と、むしゃぶりついて舌で味わいたい衝動とがカカシの中で激しく戦う。

「カカシさん、どうしました?」

ひょこ、と髪を揺らしたイルカに顔を覗き込まれなければ、カカシはしばらくその場から動けなかっただろう。

「いえ、何でも」

いつもの、他人に言わせると飄々とした笑みを顔に張り付かせたカカシは、イルカに首を振って再び歩き始める。

「店、どこにしましょうね」

隣を歩くイルカが言う。カカシより少しだけ背の低い彼だが、姿勢が良いので猫背のカカシと並べばそう変わらない。

「そうですね、この先によく行くところがあるので、そこで良かったら」
「ぜひ。入れると良いですね、酒酒屋もあんなに混んでるの珍しいくらいでしたし。給料日だからかなぁ」
「ああ、それで」

カカシはあまり意識したことがなかったが、多くにとって給料日というのは心沸き立つものなのだろう。
かくいうイルカもそうなのか、次の週末は一楽で全部乗せを食べるんです、などと可愛い話題でカカシを楽しませてくれた。給料日でなくともいつでも食べさせてやりたいが、教え子と同じく食生活の乱れがちな彼には毒だろうと、ぐっと言葉を飲む。
カカシはどのような体形のイルカであろうと愛する自信はあるが、本人の健康が一番だ。

そうこうしている内にたどり着いた店は、イルカの危惧した通り満席だった。
カウンターすらも空いていないと断られ、顔見知りの店主が申し訳なさそうに頭を下げるのに手を振って今来た道を戻ることになる。

「やっぱダメでしたねぇ」
「そうですね、予約でもしておけばよかったんでしょうけど、こっちから誘っておいてすみません」
「いえいえ! カカシさんが謝ることないです。それに、俺、誘ってもらえて嬉しかったので……」
「えっ」

本当ですか、と言いかけて、隣を歩く彼の表情に声が詰まる。
照れたように鼻を掻くイルカの頬は、見たことがないくらい赤く染まっていた。
可愛い、と息をするのも忘れたカカシに、イルカの黒い瞳がちらりと向けられる。

「この調子じゃどこもいっぱいでしょうから、あの、よかったら」
「は、はい」
「俺のうち、来ませんか」

ああ、父さん。

俺は今、天国にいるのでしょうか――


◇◇◇


「すみません、お招きしておいてこんなに散らかってて」
「いえいえ、とんでもない。きれいなものじゃないですか」
「いやぁ、お恥ずかしい……どうしても掃除が後回しになっちまって」
「俺も似たようなものですよ」

軽快な会話を交わしているように見えて、カカシは体中の血が沸騰しそうなほど興奮していた。
チャクラコントロールに長けていなければ放電していたかもしれないな、と思うほどだ。修行の成果というものはどこで発揮されるか分からない。

イルカの誘いに一も二も無く頷き、適当に酒とつまみを買い込んで訪れた彼のアパート。独身男の一人住まいに相応しい雑然とした室内は、決して不潔では無かった。彼が謙遜するほど散らかってもいない。むしろ、人の生活している温かみのようなものが感じられた。
ともすれば奥の寝室を凝視しそうになり、カカシは敢えてそちらへ背を向けた。
イルカに促されるまま座布団へ腰を下ろし、二人で買ってきた缶ビールやつまみを並べる。

使い込んだ風合いの卓袱台を囲み、カカシの真向かいに座ったイルカは小皿と箸を用意してくれた。
使い捨ての箸ではない。おそらくは客用だが、もしかしたら時には彼も使ったものなのかもしれない。そう思うと木箸にすら興奮しかけてしまい、カカシは深く息を整えなければならなかった。

「じゃあ……」

ぷしゅ、とプルタブの持ち上がる音がする。カカシもはっとして動きを合わせ、イルカと同じ銘柄のビールを開けた。
互いに缶を持ち上げ、こつんと合わせる。

「かんぱーい、ですね」
「そうだね、乾杯」

缶越しに、照れたようなイルカの瞳とかち合う。
夜道で見たほど赤くはなかったが、イルカは始終ほんのりと頬を染めていた。
まだ酒も飲んでいないのに、どうしてそんなに、と尋ねてみたくなるほどに。

「あはは、やっぱり無理かぁ」

突然、イルカがそんなことを言う。
聞けば、カカシの素顔を見ようと企んでいたそうだ。

「いやぁ、子供たちがね? ちっとも見れないって悔しがっていたものですから」
「そんな大層なものじゃないですよ」
「どうだろう、カカシさんって男前だと思いますよ」

またまた、と返しながら、カカシは内心拳を強く握っていた。
口布を外さないまま飲食することは習慣のようなものだったが、こんなことを言われれば下ろしてみたくなる。
けれど、晒した素顔がもし彼の想像と違っていたらどうだろう。がっかりされでもしたら、立ち直る自信は無い。

カカシはそれ以上食い下がってこないイルカをますます好ましく思いながら、平静を装って彼と同じつまみをつついた。沸き上がる期待と興奮は、どうにか抑えられている。
そもそも、ずっと外から眺めているだけだったこの部屋に上がることができただけでも奇跡なのだ。

紅たちには一回だけ、と言ったものの、カカシがイルカの部屋を覗いたことは数知れない。
カーテンを閉める習慣がないのか、彼の部屋は心配になるほど覗きに適していた。ちょうど良い位置に街路樹があるのもいけない。
褒められた行為でないのは承知の上だが、任務と任務の合間、わずかな休息時間に彼の生活を垣間見ることはカカシのこれ以上ない癒しだった。

彼が食事をする様子を、持ち帰り仕事をこなす様子を何度となく見つめたあの卓袱台を、今二人で囲んでいる。
深い木の色をした卓袱台の、つるりとした表面はよく見ると傷が多く、使い込まれたものだと伺い知れた。

「いい卓袱台ですね、なんていうかこう、しっくりくる」
「あはは、古いものなんですけどね。実家……もう、取り壊されちゃったんですけど、そこから持ってきたんです」
「じゃあ、子供の頃からここで食事を?」
「ええ。なかなか頑丈なんで、まだしばらくは使えそうです」

へへ、とまたイルカが鼻を掻いた。
子供時分の彼はどんな少年だったのだろう。会ってみたかったな、と思う。
彼の両親は九尾の災厄の際に命を落としているそうだが、調べたところ名前に覚えはあった。任務を共にしたこともあったように思う。

両親を一度に失ったイルカ少年の、傍にいてやれたらどうだっただろう。親を失った者同士、何か通じ合うものはあっただろうか。
そこまで考えて、詮無い事だと自嘲する。イルカが少年なら、カカシもまだ少年だった。今より分別も思いやりも育っていなかった自分に、年端も行かない同世代の相手など務まらなかっただろう。きっと、傷つけて終わりだ。

尚の事、この年でイルカと出会えたことに感謝する。
年は四つ離れているが、二人ともいい大人だ。経験と知恵もある。
膨らんだ思いをぶつけても、最悪のことにだけはならないだろう。

カカシは決意を込め、イルカをひたりと見据えた。
対するイルカはこちらの雰囲気が変わったことに気付いたのか、僅かに身体を固くしている。
手紙を渡してまで呼び出したこの夜、カカシが何を伝えたいのか、彼にはもうわかっているのかもしれない。

「あの、イルカ先生」
「は、はいっ」
「俺が、今夜イルカ先生をお誘いしたのは、ね……」
「はい……」

一度、ぺろりと唇を舐める。
緊張で言葉がうまく出てこないなど、そう経験も無いことだった。
神妙な顔でカカシを見つめてくるイルカの、こちらも緊張しているのか赤みのさした頬が目に眩しい。

「あのね、俺と、お付き合いしてもらえないかな、と思って」
「お、お付き合い、と言いますと」
「恋人になってもらえないかっていうことなんだけど」

迷惑かな、と零した言葉に、イルカは大げさに手を振った。とんでもない、と言う彼の顔面がみるみる赤く染まっていく。

「俺なんかで良いんでしょうか」
「あなたじゃないと駄目なんです」

カカシは視線を外さない。焦ったように頭を掻いたり、無意味に卓袱台を拭き始めたイルカが答えをくれるまで、じっと口を噤んでいた。
しばらくして、目を泳がせていた彼が拳をぐっと握るのが見えた。
一文字の傷の上、つぶらな瞳がカカシを見つめる。

「謹んで、お受けします」
「本当!?」
「はい」
「よかった、ありがとう」

何となく、果たし状を受け取った時のような台詞に聞こえなくも無いが、カカシは彼が諾と言ってくれたことに舞い上がった。
これまでの彼との関わりから分析するに、勝率は半々と予想していたのだ。もし断られても諦める気など無かったが、一度目の告白で応えてくれるとは。

自然と頬が緩むまま、イルカに微笑む。彼もまた、へへ、と照れたような笑みを見せてくれた。

「良かった、本当に良かった。嬉しい」

ほっとしたら、急に喉が渇いてきた。
カカシはすっかり汗をかいた缶を握り、きつい炭酸をぐびぐびと喉に流し込む。額に汗こそ浮かんでいなかったが、無意識に髪の生え際をぐいと拭った。
その仕草に、イルカが慌てたように腰を浮かす。

「すみません、うち暑くって」
「いいよ、気にしないで」

もう一度すみません、と言いながら、イルカが古びた扇風機をカカシに寄せてくる。
外から眺めていた際に気付いたことだが、この中忍宿舎のどの部屋にも室外機の類は見当たらなかった。皆いつも扇風機ひとつで暑さをしのいでいるのだと思うと少し同情してしまう。
けれど、そのおかげでカカシは開いた窓から無防備なイルカを観察することができたのだった。

「うち、エアコンあるから。もっと暑くなってきたら泊まりに来ると良いですよ」

何の気なしに言った言葉だった。
湿度も高いこんな夜には寝苦しいだろうと、そう思ってのことだ。
しかし、「泊まりに……」と呟いたイルカが恥ずかしそうに下を向いたのを見て、カカシは己の一足飛びの発言に飛び上がる勢いで居住まいを正し、両手をぶんぶんと振った。

「いやいや! そういう意味じゃなくって、ほら、暑いの嫌でしょ!? あなたいつもお腹出して寝てるし、風邪ひいちゃよくないと思って、ね!?」

あわあわとまくし立てるカカシを、ちら、とイルカが上目に見つめてくる。
カカシは自分の失言に気付かず、変なこと考えてないから、とか、何なら自分が不在の時にも入ってくれていいから、とか、下心を隠すのに必死で言葉を繋いだ。

と、イルカがくすりと笑う。

「カカシさん、もういいですよ、わかりましたから」

その笑みが何だかいつもの彼とは少し違って見えて、カカシはうっと言葉に詰まった。
楽しそうに細められた瞳、にこやかに持ち上がった口の端などは見慣れているはずなのに、妙に雰囲気が異なるのだ。

何も言えないまま両手を下ろしたカカシの横を、立ち上がったイルカがすっと通り過ぎる。
その背を目で追うと、彼は開けっ放しだった窓を閉め、カーテンを隙間なく閉めていた。
カカシが知る限り、イルカは夜、カーテンどころか窓も閉めない。
この蒸し暑い部屋で、どういう風の吹きまわしだろうとぼうっと見つめているカカシの傍に、イルカが膝をつく。

ふぅ、と彼が零した吐息が、やけに大きく聞こえた。

黒い、半袖のジャケットが、イルカの肩からはらりと落ちる。
カカシの予想した通り、その下はタンクトップ一枚だった。たるんだ襟元が大きく伸びて、ほどよく鍛えられた胸筋をちらりと覗かせている。

白いその布地は洗濯のしすぎなのか生地自体が薄くなっているようで、彼の胸元、ぷくりと勃ち上がったふたつの粒の色さえ淡く透けてしまっていた。

「あ、暑い、ですもんね」

だから脱いだんでしょ、と続けるために言った言葉に、イルカが小さく笑う。

「ええ、本当に暑いですね。カカシさんは? そんなに着込んで、暑くないんですか」
「俺はほら、暑さ寒さの類は平気、みたいな、ね?」
「すごいな、尊敬します。俺なんて暑さにはめっぽう弱くて……ほら、汗、すごいでしょう」

言いながら、イルカがタンクトップの中央、縦に線を引くようにつう、と指を滑らせた。
彼のなぞった形に添って、白い布地が汗で色を変える。
指の動きに合わせて布地が寄ったことで、ぷくぅ、と立ち上がった乳首の形がますますはっきりと浮かび上がった。

「っ……あの、今そういうことしないでほしいんだけど」
「どうして、ですか?」
「俺、我慢してんのよ、こう見えて」

片手で顔を覆い、イルカの煽情的な姿から強制的に視線を外したカカシだが、その股間はむくりと反応しかけていた。
好きな相手の破廉恥な姿を前にして当然の反応ではあるが、告白したばかりの今、こんな姿を見せてしまうのは避けたい。身体目当てのように思われるのは嫌なのだ。

急激に色気の増したイルカとこれ以上一緒にいるのはまずい、とカカシが腰を浮かせかけた時だ。

「ねえ、カカシさん」

カカシの腕を、イルカが掴んだ。
およそ中忍とは思えない、予備動作の無い動きだった。

その一瞬で彼の階級以上の実力を見切ったカカシが警戒も露わに眉を持ち上げるのと、イルカが「あの」と声を発するのは同時だった。

カカシが気配を鋭くしたことに気付いているだろうが、イルカはその腕を離さない。
それどころか手を滑らせ、カカシの手甲へそっと触れてきた。
手甲からはみ出す指に、彼の指先が重なる。
わずかに湿ったその感触に、警戒心を上回るほどの官能が背筋を走り抜けた。

「全部、わざとだって言ったら、怒りますか?」

潤んだ瞳が、少し低いところからカカシを見上げる。
目元まで赤くしたイルカは、カカシの手に触れたままもう片方の手で自身の襟ぐりをぐい、と引っ張った。

健康的な肉体の上、ぷくりと勃起する乳芽が目に飛び込んだ。

その途端、カカシは唐突に理解する。
カカシに気配を悟らせずに腕を掴むことができるイルカの部屋を、カカシが毎夜の如く覗けていた理由。
皆が居酒屋に集まるであろう給料日に、ぽっかりと自分の任務が空いていた理由。
ジャケットの下のタンクトップが、くたびれていた、理由。

「イ、ルカ、せんせ…………そんなところも、好……き……」
「えっ、カカシさん、嘘だろ、えっ、ええーーーっ!!」

穏やかな笑みを浮かべたカカシが、鼻から血を流しながら仰向けに倒れていく。
咄嗟に頭を受け止めたイルカが見たこともないほど目を見開いていたのを、可愛いな、と思ったのがその日の最後の記憶だった。


◇◇◇


イルカは脱衣所に映る自分を見て、はあ、とため息を吐いた。
背後ではぐおんぐおんと音を立てて洗濯機が動いている。

鼻血を流して倒れてしまったカカシは、今イルカのベッドですやすやと寝息を立てている。
倒れた時には驚いたが、あまりに穏やかな顔で眠っているのにほっとした。

介抱するため捲った口布の下は、血にまみれているとはいえ想像以上に整っていた。
そっと血を拭きとってやり、横を向かせて鼻の付け根を圧迫する間もカカシは瞼をぴくりともさせなかった。
今夜こそ、と意気込んでいたイルカは出鼻をくじかれ、くたびれたタンクトップはカカシの上着と一緒に洗濯機の中で回っているというわけだ。

カカシが自分に気があるのでは、と気付いたのはひと月ほど前だった。
どうも誰かに部屋を覗かれている気がして、ちょっとしたトラップを仕掛けて犯人を探ってみればそれがカカシだったのだ。
トラップには自信があるとはいえ、彼が引っかかったのは意外だった。身代わりに部屋に置いておいた影分身が下着一枚で動き回っていたのが良かったのかな、と思うのと同時に、もしやと彼の意図に気付いてからは早かった。

意識してみれば、受付での彼は混雑していようがいつもイルカの列に並んだし、授業中にも窓の外から視線を感じることがあった。
廊下ですれ違った時もそうだ。直接は会釈をする程度のものだが、イルカが去った後も背中に痛いほどの視線を感じた。振り返ったところで既にカカシの姿は無く、そのもどかしさがいつしかイルカを彼に夢中にさせていった。

元々、良いなとは思っていたのだ。
イルカは自分が女性を愛せないことを自覚していたが、かといって男性とどうこうなった経験は無い。
狭い里で、教職にある自分が同性と関係を持つのはリスクばかりが高いように思えたからだ。
右を見ても左を見ても男女が結ばれることが当たり前の里にあって、イルカはいつも肩身が狭いような思いをしていた。

そこに、眩しいほどの想いを寄せられてはひとたまりもない。

カカシが見たいのなら、と虫の侵入を厭わず窓を開け、カーテンを開け放つのも苦にならない。
いつもの寝間着を押し入れに仕舞い、下着姿で寝るのにも慣れた。
受付で書類を渡しながらそっと指を触れさせてみたところ、カカシが飛び上がって逃げたのは想定外だったが、そんな表と裏のやり取りを経てイルカはますます彼への想いを強くしていった。

しかし、いじらしく健気なカカシは一向にこちらへ接触してこない。
さすがのイルカもしびれを切らし、ついに一手を打つことにした。
協力者は夕日紅だ。カカシが不在の折、上忍待機所で声をかけられたのがきっかけだった。
あんたも大変ね、と言う彼女に、カカシに手紙を書くようそそのかしてほしいと頼んだのだ。
快く引き受けてくれた紅はきれいな唇をにんまり持ち上げ、うまくいったら教えなさいよ、と少しぞっとするような声を出していた。
今夜も居酒屋に居た彼女と視線こそ交わさなかったものの、明日には首尾を聞かれるに違いない。どう説明したものかなぁ、とイルカは鼻の傷をぽり、と掻く。

次々舞い込むカカシへの任務を調整するのは一仕事だった。何しろ、カカシは受付を介さない任務にも出ることが多い。
ちょうど今日、給料日に裏の任務が舞い込まなかったことは僥倖だった。

かくして場は整い、イルカは無事ラブレターを受け取り、カカシを自宅へ誘い込むことに成功したのだ。
彼の愛読書も読み込んで、きっと好きだろう少し油断した服装にも挑戦した。
恥ずかしそうに告白してくれた彼と思いを通じ合わせ、さあめくるめく愛の世界へ――と思っていた、ところだったのに。

寝室へ戻ったイルカは、ベッドの上で気持ちよさそうに眠る想い人を見下ろし、何度目かわからないため息を零した。
何とは言わないが準備万端、あとは二人でベッドに座るだけだったのに、一人ですうすう寝てやがる。

ベッドの傍らに膝をつき、白い横顔をじっと見つめる。

「起きたら、覚えててくださいよ」

囁きと共に、頬へちゅ、と口づけた。
カカシがぽぽぽ、と顔を赤くする。脈拍も呼気も完全に寝ているそれなのに、良い夢でも見ているのだろうか。

俺のことだったらいいな、と思いながら、イルカは久々の寝間着に袖を通すのだった。









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