「いい加減疲れませんか、こういうの」

乱れた髪を束ねながら、イルカは背後で寝そべる男に向けてぽつりと呟いた。
刹那的な行為の後、会話を交わすことは稀だ。今夜もこのまま帰ってしまっても良かった。
この、さびれた宿の会計は既に済ませているのだから。

「こういうのって?」

普段より幾分か砕けた声でカカシが言う。長い指が背中をつう、となぞるのに、肌がふつりと粟立った。
情事の続きに引きずり込まれる前に、イルカは床に落ちた衣服をたぐり寄せる。黒い支給服を頭から被れば、自身の汗の匂いがつんと鼻をついた。
未だ裸体を晒すカカシは、イルカのそんな匂いが好きだと言う。生きてるって感じがする、といつだか言っていた。
それがいつのことか思い出せないあたり、この不毛な関係が長く続きすぎたのだと感じさせられる。

「酒飲んでセックスするだけの関係っていうことですよ」
「俺は別に平気だけど。なに、今さら倫理がどうでも無いでしょうに」

カカシが、はん、と鼻を鳴らす。
肌を合わせる者だけに晒す、どこか俗っぽい態度だった。
第四次忍界大戦において珠玉の働きを見せた、高潔な戦功者としての彼はここにはいない。
部隊の大将まで務めた男と、一兵卒に過ぎない自分。次期火影と、アカデミー教師。
大戦が終結した今となっては立場が違いすぎる。関係を結び始めたあの頃にはもう戻れないのだ。

「こんなこと、誰かに知られたら」

憂いをそのまま口にするイルカの腰に、カカシの手が回る。意味深に下腹を撫でられ、ひくりと喉が震えた。

「いいじゃない。別に困る人間もいないでしょう」
「カカシさんはいいんですか」
「平気だって言ったでしょ。どうしたの、何かあった?」

のそりと、彼が起き上がる気配がする。ベッドに腰かけたままのイルカの脇から手を伸ばし、サイドボードに置かれたペットボトルを手に取った。
半分ほど中身の残るそれをごくりと飲むカカシを、ちらりと振り返る。ほんの少し前まで汗に濡れていた肌はすっかり乾いて、さらりと白い。肩口に薄っすらとついた赤い跡は、行為に没頭したイルカのせいだった。
最初は違った。
互いに極力痕跡を残さないよう気を遣い、外で会った時も他人行儀を崩さなかった。イルカは何もかもが初めてだったけれど、彼にはきっと数人いる中の一人だっただろう。上忍の気まぐれだ、いつか切られるのだと、常に自分に言い聞かせていた。
それが、今は廊下ですれ違ってもどこか湿度のある視線でカカシを目で追う自分がいる。それほど、入れ込んでしまったのだ。

「……就任式の準備、だいぶ進んだと聞きました」
「ええ、そうだね。あなたを始め、皆がよく働いてくれますから」
「一番働いている人が何を言いますか」
「だってそうでしょう。あなたがあんまり仕事熱心なおかげで、溜まって仕方がなかった」

飲み終わったボトルを元に戻したカカシが、イルカの腕に手を絡めてきた。こんな甘ったるい仕草を彼がするようになったのは、ここ最近のことだ。
大戦後、濃灰色に揃った両の目を晒すようになった彼はどこか吹っ切れた風にイルカを誘うようになった。式を飛ばすのも憚られるほどひっそりと持ち掛けていた関係も、廊下でさらりと、今夜どうです、などと声をかけてくるほどに。
カカシが、この関係をどうしたいのかが分からない。彼から終わりを告げられるとばかり思っていたのに、ずるずると続けてしまった。
自分から去って行けない理由なんてわかり切っている。
好きだ、好きなのだ。
いつの間にかこんなに恋してしまった。
好きな相手に求められ、嫌なはずがない。
しかしイルカは男だ。もうじき火影になろうという彼に対してふさわしいとは言えないだろう。
今夜が最後だと決めて、誘いに乗ったのだ。
乾ききった咥内で、舌がひりつく。溜めた唾液を飲み込んで、イルカは唇の震えを悟られないよう、静かに口を開いた。

「そろそろ、終わりにしましょう」
「言いたいのはそのこと?いいよ、あなたがそうしたいなら」

至極あっさりと、カカシがそう言う。
想定はしてあった。けれど、実際切られてしまえば言葉が詰まる。
イルカはカカシに見えないところでぐっと、拳を握った。手のひらに爪が食い込み痛いほどに。
かろうじて残った意地で立ち上がりかけた時だ。

「じゃあ、これどうぞ」

いつの間に移動したのか、目の前に立ったカカシが小箱を差し出してきた。
唐突さに面食らうイルカに、彼はにこりと瞳を和らげてみせる。

「何、ですか」

眉間に皺が寄る。その怪しい小箱には水色のリボンがつけられていた。およそ、この場には似合わない小道具に思えた。

「いいから開けてみてよ」

ずい、と胸元に押し付けられ、仕方なく受け取る。腰に小さなタオルを巻いただけのカカシは、イルカが訝し気にその箱を開けていく様子をじっと見つめているようだった。

「これ……」

白い布が張られた箱の中には、親指ほどの大きさの鍵が入っていた。

「火影屋敷の鍵です」

さらりと言ってのけたカカシが、鍵を乗せたイルカの手のひらを包んだ。
意味が分からない。
火影就任にあたり、警護の面からも専用の住宅が与えられることは知っていた。三代目時代にはよく屋敷に呼ばれたものだ。
カカシのためにも、歴代に比べ質素なものではあるがそれなりの居宅が建築中だとは聞いていた。
機密にもあたるその鍵が、どうしてこの手の中にあるのだろう。
よほど間抜けな顔をしていたのか、カカシがぷっと吹き出した。頬の緩んだその顔は、二人きりの夜にはついぞ見かけなかったものだ。
しばし笑ったカカシは、呆然とそれを見つめるイルカにごめん、と言ってやっと笑いを収めた。

「プロポーズですよ。結婚を前提にお付き合いしましょう、イルカ先生」

穏やかな表情で、イルカの好きな低い声がそう言った。
プロポーズ、結婚、付き合い。言葉がぐるぐると頭の中を回っている。
何だ、何が起こっているんだ。
時間をかけて理解した時、イルカは後ろに飛び退いた。ちゃりん、と落ちた鍵がベッドの上で跳ねる。

「な……何を言ってるかわかってるんですか」
「当然ですよ。あなたが身を引こうとすることなんて予想がついてましたからね」
「大体、木の葉では男同士で結婚なんて……」
「変えて見せますよ、常識も、しきたりも」
「そんな……」

ベッドの隅でへたりと膝をつくイルカに、鍵を拾ったカカシが軽やかな動きで近づいてくる。力の抜けた手のひらにまた鍵を握らされ、その上からカカシの両手がしっかりとイルカの手を包んだ。

「簡単ではないでしょうね。それなりに苦労はするでしょうし、行き詰まるときもあるでしょう。そんな時、あなたに隣にいてもらえたら嬉しいんだけど……どうですかね」

小首をかしげたカカシが、ここで初めて照れたような顔をした。
じわりと視界が滲む。鼻の奥がつんと痛み、ひく、と目尻が震えた。
ぽろりとひとつ零してしまえば、涙があふれるのに時間はかからなかった。

「泣かないでよ、せっかくの誕生日なのに」

固い、彼の指先がその涙を拭っていく。次々にあふれるそれはカカシの指を濡らしたけれど、彼の表情は今まで見たことがないほど愛し気に緩んでいた。

「知ってたんですね」
「俺を誰だと思ってるんです。ねえ、気付いてなかったかもしれないけど、俺はこれまでもあなたの誕生日にはできるだけ傍にいたつもりですよ」

言われてみればそうかもしれない。
初めて関係を結んだときから今までいくつか年を取ったけれど、どの誕生日にもイルカはカカシに会っていた。夜を共にしたこともあれば、子供たちと共に明るく祝ってもらったこともある。日付が変わる寸前に窓から忍んできた時もあったではないか。
こんなに覚えているのは、イルカも嬉しかったからだ。一人で何となく過ごしてばかりいた誕生日に、誰かの、恋しい相手の存在を感じていられるのが嬉しかったのだ。

「偶然だと……」
「好きな人の誕生日って特別でしょ? 俺って結構ロマンチックなんですよね。あと嫉妬深い。でも、嫌いじゃないでしょ」

さらりと好きな人だと言われ、耳まで熱くなる。気付かなかったし、思いもしない。こんな、誰もがその実力を認めるような男が自分のことを好いているだなんて。
ずび、と鼻水を啜り、イルカはカカシを見つめた。自分はきっと、泣き笑いのような顔をしているだろう。

「すごい自信ですね」
「あなたに愛されてることだけは分かってるからね」
「じゃあ、俺はカカシさんの手のひらで踊らされてたってわけですか」
「そう簡単でもないよ。今も断られたらどうしようって心臓が飛び出しそうだ」
「どうだか」

くく、とどちらからともなく笑いが零れる。身体ばかりが馴染んで、今まで心は置いてけぼりだった。それを、結び直すことができるのだ。

「で、どうします。いつから一緒に暮らす?」
「通いで勘弁してください」
「じゃあ、成立ね」

どこかほっとしたような顔で、カカシが笑う。この、次期火影になる男にこんな顔をさせられるのは自分だけなのだと、少しは自惚れてもいいのだろうか。
手の中に、固い鍵の感触。
カカシの言った通り、きっと苦労もたくさんするだろう。火影屋敷を警備する暗部にだって、良い顔はされないに違いない。周囲に何と言って説明するのかも頭の痛い話だ。
それでも、目の前で優しく微笑む男の手を離すことは無いだろう。
自然と、顔が近づく。
そっと触れ合った唇から、カカシの体温が伝わった。







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