文月の新月の頃。海の日と呼ばれる休日が火の国にはある。
多くの人々にとってはそれはただ学校や仕事が休みになる日だが、うみの家の者にとってだけは特別な意味のある日であった。

うみのイルカは一人夜道を歩きながらひとつ、ため息をついた。
この日は毎年落ち着かない。十歳になるかならないかの頃、親に呼ばれて説明された内容は当時のイルカにとって理解の範疇を越えたもので、おとぎ話のように思えたものだった。
しかし、歳を重ねるにつれその内容が現実味を帯びていき、二十三になる今ではいっそ恐ろしさすら感じている。
うみの家の者は、海の日に身体を捧げた者と永遠に結ばれるーー
実際イルカの両親であるイッカクとコハリも海の日に契りを交わしたのだそうだ。どこか気まずそうにそれを話す父親の顔を思い出し、イルカはげんなりと肩を下げた。
傍から聞けばロマンチックな話だが、相手が男女・年齢問わずというのが問題だ。意に沿わぬ相手に手篭めにされた場合でも何故かその通りになってしまい、辛い一生を終えた人間もかつてはいたらしい。
もし自分がそのような目に遭ったらと思うと恐ろしく、イルカはなるべく恋愛ごとに首を突っ込まないようにしてこれまで生きてきた。そしてこのまま清い身体で老いるのも良いとすら思っている。
だから毎年この日になるとなるべく自宅に籠って誰とも接触しないようにしていたのだが、今年はどうしても外せない仕事が入ってアカデミーに出勤していた。
幸い仕事中は忙しさに翻弄されて余計なことを考えずに済んだが、思ったより帰宅が遅くなってしまい無駄に辺りの気配を伺ってしまう。
あと少しで自分の住むアパートだ、というところで、イルカはぴたりと足を止めた。
首筋に、ひやりと冷たいものが押し当てられている。見なくても、それが苦無だと分かった。
「…やっと見つけた。貴方だったんですね」
耳の奥へ直接流し込まれるような低音。囁く声は、イルカが良く知るものだった。
「ど、どうして」
ひりつく喉から絞り出した声音が震える。
「はたけの家にはつまらない言い伝えがありましてね」
背後の男、はたけカカシが囁いた。イルカがアカデミーを卒業させたばかりの教え子の、上忍師であるこの男とは、先日初めて二人きりで酒を飲み交わしたばかりだった。
「文月の新月の夜、水の名を冠した人間と契れば永遠に添い遂げられる…ねぇ、つまらないと思いませんか?俺だって信じちゃいなかった」
カカシの親も、信じてはいなかったのだと男は続ける。寝物語に聞かされたおとぎ話を思い出したのはつい最近なのだ、と。
「貴方、名前に海、がついているでしょう。始めはどうとも思わなかったけれど…興味が出てしまいましてね」
「な、んの」
「貴方と契ったら、どうなるかってことです」
押し当てられた金属が、す、と惹かれた。刃物の背で撫でられ肌が粟立つのを感じる。
「悪い冗談はおやめください」
苦無を収めたカカシに背を向けたままで言うが、今度は右腕を捻り上げられた。鋭い痛みに声を上げかけて、すんでのところで堪えた。
「冗談かどうか、確かめてみませんか」
腰に手が回る。ぶるりと震えてしまったイルカに、彼がふ、と笑ったのが分かった。
「お願いです、考え直してください。俺の家にも古い言い伝えがあってーー」
言いかけた唇に、冷えた指が押し当てられた。それきり何も言えなくなる。
「続きはベッドで聞かせて」
ね、と言ったカカシが、イルカを肩に担ぎ上げた。そのまま高く跳躍し、首に引っかかったイルカの鞄が空中でぶらりと大きく揺れる。
遠くなる地面に伸ばした手は、虚しく空を切った。






End

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