「ゴミ捨て場に捨てられているカカシを拾うイルカ」実績解除


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あと、どれくらい保つだろうか。

はたけカカシは民家の屋根瓦をとん、とつま先で蹴りながら、家路へ急いでいた。
単身赴いた任務の帰りだ。ぎりぎりまでチャクラを消費し、どうにか里へ辿り着いた時には真っ黒な空に星が瞬いていた。
五代目への報告は先に式で飛ばしてある。里長勅命の任務であったため、受付へ寄る必要も無い。
大きな怪我を負ったわけでもなく、とにかく家のベッドで寝たかった。病院にはこのところ世話になりすぎている。教え子の苦い顔を見るのは怪我以上に辛いものがあり、カカシの足を病院から遠ざけていた。
寝れば回復するのだから、しばらく一人にしてほしい。
屋根を飛び移る体力もなくなり、やがて狭い路地に降り立った。しかし、ふらつく両足を叱咤しながら数歩進んだ先で、唐突に視界が暗くなる。
どさ、ぐちゃ、という大きな音が耳元に響き、腐敗臭が鼻をつく。ああ、ごみ溜めか、と気付くと同時に笑いがこみ上げてきたが、それを表情に乗せることすらできなかった。
受け身も取らず倒れたものの、ビニールにまとめられたごみの山が受け止めてくれたから、怪我は増えていないだろう。
朝までこのままでいたら近所の奥さん連中が通報でもしてくれるだろうか。警備隊にみっともない姿を見られるのは勘弁願いたいが、この状況では仕方ないだろう。
次第に頭の中もぼんやりとしてきた。そろそろ限界のようだ。
情けないという思いと、どうでも良いという思いのまま眠気に流されようとしていた時だ。

(あれ、酔っ払いかな。あんなとこで迷惑な)

耳に届いた声に、指先がぴくりと反応する。
深夜だ。路地には先ほどまで人気もなく、辺りの民家もほとんどが明かりを消していた。

(動いてねぇな。大丈夫かな)

殺気の欠片も無い呑気な気配が近づいてくる。
動けるわけないでしょ、と心の中で返すカカシからは眠気が遠ざかっていた。
聞き覚えのある声に一人の顔が浮かぶ。参ったね、と内心ため息を吐いているうちにすぐ目の前でざり、と地面を踏みしめる音がした。

「あれ、カカシさん?」

違和感があった。
先ほどまで聞こえていた声はどこか籠っていたから、てっきりチャクラ切れが耳に影響を及ぼしていると思っていたのに、今聞こえた声は至ってクリアだ。
マスクでもつけていたか、いや、彼のそんな姿は見たことが無い。では、何故――

「ちょっと、失礼しますね」

考えている間に、その男、うみのイルカがカカシの身体を検分し始める。意識、怪我の有無を確認する手つきは無駄がなく、カカシが余分な力を抜くには充分だった。

(うーん、怪我は無いみたいだ……だとすると、チャクラ切れだろうな。カカシさんよくやるって聞くし……病院連れてくか?)

まただ。イルカの声が膜を張ったようにくぐもって聞こえる。
何故、と瞼を持ち上げようとするが、薄く開くのが精いっぱいだ。

「あ、気付かれましたか?」

今度はまたはっきりとした声だった。
狭い視界でどうにか見た彼の口元には、マスクの類など無い。街灯の影になってはいるが、彼を特徴づける一文字の鼻傷も、少し厚めの唇も、しっかりとした顎も普段通り、外気に晒されていた。

「病院へお連れしますね。あ、医療班を呼んだ方がいいですか?」

こちらを安心させるためか、先ほどよりも柔らかなトーンでイルカが声をかけてくる。
カカシは渾身の力を振り絞り、ゆっくりと顔を左右に振った。

(あれ、嫌なのかな)

くぐもった声。驚くべきは、その時イルカの口元が動いていなかったことだ。
病院へ行くかと問うた時は確かに唇が開いていた。発声にあたって喉元が上下していたのも確認してある。

「病院はお嫌なんですね、承知しました」

首を振ったきり動かないカカシを見つめ、今度ははっきりと口を動かしながらイルカが言う。

(うーん、どうしようか……自宅へ連れてってやりたいけど、知らねぇしなぁ)

口を閉じたまま顎に手をやるイルカを薄目で見ながら、カカシは背筋がぞぞっと粟立つのを感じた。
イルカの思考が聞こえている。心の声だ。
今カカシが胸の内で「嘘だろ」と呟いているのと同じものが、音になって聞こえているのだ。
どんな忍術で、と身体を強張らせたとき、急激な頭痛に襲われる。薄目すら開けていられなくなって、カカシはそのままごみの山に埋もれるように脱力した。
イルカから見れば、再びカカシが目を閉じただけに見えただろう。

「じゃあ、今夜はうちで休んでください。すぐそこなんで……っと、ちょっと失礼しますよ」

脇下から潜り込んだ腕に上体を起こされ、流れるようにイルカの背に負ぶわれる。

(うわ、重……)

くぐもった声と共に一瞬ぐらつきかけたイルカだったが、すぐさま体勢を整え立ち上がった。
完全に力の抜けた身体はさぞかし重いだろう。しかも、こちらの方が上背もある。
心の声が聞こえることにすっかり意識を持っていかれていたが、背中で揺さぶられている間に申し訳なさの方が上回ってきた。
驚くべき現象については後々五代目に相談するとして、回復したらこの人に礼をせねばならないな、と思いながら、カカシはいつしか意識を失っていた。



◇◇◇



コツコツ、とガラス窓を叩く音で、カカシの意識は浮上した。
瞼は重く、指先に至るまで感覚はあるものの、動かすことはできない。
背中に当たる感触は柔らかく、身体の上にも暖かな布団がかけられているようだった。
病院か、と思うのと同時に、すぐ脇に誰かの気配を感じ神経が尖る。

「はいはい、ちょっと待ってな」

子供に言い聞かせるような調子の声は、まぎれもなくうみのイルカのものだった。ということは、ここは彼の住居なのだろう。
そうと分かると、ひりついた神経が弛緩する。気を失ってからそれほど時間は経っていないらしい。
鼻から吸い込んだ空気も病院のそれとは違う。他人の生活を感じさせる、独特な匂いだった。
がらり、と窓が開く音がする。空気を震わせ、式鳥が紙へ変化したのがわかった。

(明朝伺う、か。ってことは、明日の朝までは預かってて良いってことだよな。外した装備、袋にまとめとかねぇと)

相変わらず聞こえてくるイルカの心の声で状況を知る。
最初は驚いたし今も驚きは去っていないが、動けず目も開けられない自分にとって、状況把握の意味では意外と便利なようだ。
えーと、あれ、という声と共に、がたん、がさごそ、と何かを探すような音が続いた後、イルカがこちらへ近づいてくる気配がした。
瞼の裏の光加減からして、顔を覗き込まれているのがわかる。狸寝入りは得意な方だが、少しひやりとした。
できれば、起きていると気付かれたくない。カカシだけが彼の心の声――サクラに言わせれば内なる声というものだろうか――それを聞いている状況は、意思疎通にフェアでないからだ。
そもそも、彼との間には部下を介しての上忍師と元担任教師という関わりしか無い。こんな風に二人きりになるのも初めてで、だからこそ彼が自分を自宅へ運び込んでくれたのが意外だった。
面倒見の良い男だとは思っていたが、それは生徒のみならず成人男性に対しても発揮されるものらしい。
しばらくカカシの顔を覗き込んでいたイルカが、す、と手を伸ばしてきた。斜めにつけたままの額当てを掠め、そっと前髪が掻き上げられる。
写輪眼を見ようというのか、とぎくりとしたが、その手のひらは髪の生え際に押し当てられただけですぐ離れていった。

(熱……は無いな。本当に気を失ってるだけか、良かった……いや、良くはねぇんだけど)

体調を心配してくれているのだ。一瞬でも疑ってしまったことに申し訳なさがこみ上げる。
疑いたくはないけど、許してよね。
心の中で呟き、この声も届けば良いのに、と思ってしまった。
立ち上がったイルカが離れていく。十歩程度進んだ先で、戸を開ける音がした。そうしてまた閉まり、ややして水音が聞こえてくる。
お風呂ね、どーぞごゆっくり。
そういえば、ごみ捨て場に倒れていたというのに自分の身体からは不快な匂いがしなかった。どことなく身体もさっぱりとしていて、イルカが装備を解くついでに清拭してくれたのだと知る。
マスクや額当てもその時外されていたのかもしれないが、先ほどの彼の手つきからして、顔面には手をつけていないようだ。
見られただけであればどうということは無いが、気分の良いものではない。彼の気遣いが有難く、また好ましく感じられた。
それにしても、顔の筋肉すら動かすのが難しいとは、今回はよほどダメージが大きかったらしい。チャクラ切れに陥っても会話に困ることは珍しいのだが、それほどの何かがあっただろうかと任務を反芻する。
単身赴いた偵察任務だ。火の国の大名家から盗まれた秘宝を取り返すべく、在りかを探り敵陣の子細をまとめ報告するもの。
任務自体は支障なく終わり、帰り道で偶然抜け忍らしき一味に遭遇したのがまずかった。相手は十人を超え、ちらほら手練れもいたものだから、技を連発し使うはずのなかったチャクラまで消費してしまったのだ。
しかも、最後に残った一人が今際の際で寄越した技を弾き返したとき、衝撃で太い木に背をぶつけた。咄嗟に発動させた風遁がクッションになったが、痣くらいはできていそうだ。
残った体力とチャクラでぎりぎり里へは戻れたが、辿り着くだけで精一杯だったということだろう。
もっと鍛錬が必要だなとひとりごちながら、風呂場の水音が続いていることを確認しつつ、そっと瞼を持ち上げる。薄くではあるが、視野を確保することができた。
至って普通の、木目の天井が目に入る。
眼球を左右に動かし、できる範囲で室内を確認した。
広くも、狭くもない公共住宅。
カカシの住む上忍用のそれに比べてやや簡素だろうか。窓にはカーテンがかかっておらず、彼の大雑把な一面を覗かせていた。
目線が窓に近いところからして、イルカが普段使っているベッドに寝かされているのだろう。寝床を奪ってしまい、重ね重ね申し訳ない気分になる。
きょろきょろとしている間にまた眠気に襲われ、カカシは疲労感と共に瞼を閉じた。それとほぼ同時に、浴室に続くだろう扉がからからと音を立てる。
風呂上がりのイルカは数歩進み、冷蔵庫から取り出したらしき飲み物をごくごくと喉を鳴らして飲んでいた。牛乳だろうか、麦茶だろうか。少し羨ましくもある。
また気まずい思いをする前に寝てしまおうと呼吸を整えていると、イルカが寝室の入り口で立ち止まる気配がした。

(よく寝てる……)

もう慣れ始めた心の声に、そうですよ、寝てますよ、と内心頷く。
普段の彼のはきはきとした物言いとは違い、気の抜けたような、しかし耳馴染みの良い落ち着いた声音だ。ナルトと二人きりで話しているのを見かけたこともあるが、その時の兄貴然とした雰囲気ともまた違う。
いつもは気を張っているのだと思うと、確か四つ年下である彼に多少のいじらしさを感じてしまった。
しんみりしているカカシの元へ、イルカが静かに近づいてくる。
少しこちらを覗いた後、押し入れの方から何かを引っ張り出していた。ごそごそと、ベッド脇へ布団を敷いているようだ。
客用の布団があるのは、ナルトも時々泊まりに来ていたからだろうか。そういえば、今日はイルカ先生んちから来た、なんて言っていたこともあったよなぁと懐かしく思い出す。
敷き終わったらしきイルカが、またカカシの顔を覗き込んできた。

(ちょっとラッキーだな。いやいや、不謹慎、不謹慎。……でもなぁ)

一向に布団へ横になる様子もなく、黙ったままぶつぶつと呟いている。

(口布、外してみっかな)

ちょっと、と声が出そうになった。実際にはそんな力は残っていないのだが、ぎくりと身体が強張る。見られてもどうってことは無いと思ったばかりだが、ここまできて許可なく見られるのは何だか抵抗がある。
イルカが、のっそりと動いた。影がじわじわと顔へかかる。
うわー、うわー、と思うことしかできないでいると、口布に触れるか触れないかのところでイルカの手がぴたりと止まった。
そうして、すっと退いていく。

(やっぱやめとこ、悪いよな)

心の中でそう呟いてベッドから離れたイルカに、心底ほっとした。
焦っちゃったじゃない、もう、とカカシが文句を連ねているのも知らず、彼はまだこちらへ視線を向けたままのようだった。

(いい男だな……きれいな顔……身体も、すごいな……俺ももっと鍛えた方がいいかな)

立て続けに褒められ、素顔を暴かれかけたことに対する不満が霧散していく。そ、そう?と頭を掻いてしまいそうだ。
大して話したこともないのに、そんな風に思ってくれていたとは知らなかった。イルカも教師とはいえ中忍としてそれなりに戦歴は積んでいるはずだから、充分良い身体をしてるんじゃないですか、と声をかけたくなるくらいだ。
回復したら礼を兼ねて飲みに行くのもいいかもな、とすっかり上機嫌になったカカシは、良い気分のまま今度こそうとうととしてきた。
朝になったら病院へ移らねばならないらしいから、今だけでもゆっくりしておこう。
そう思ったところで、イルカがふぅ、と小さく息を吐いた。

「本当に格好いい……やっぱ、好きだな」

えっ?
小さな、小さな声だった。
しかし先ほどまで聞こえていた心の声とは違い、クリアに耳へ届いたそれは彼の口から発せられたものだ。
好きって、え、俺? あ、憧れとかそういうこと? だよね、俺ちょっと有名人だから。自慢じゃないけど。
思いがけない言葉をそう結論づけようとしたカカシの頬に、ふいに何かが触れる。
柔らかく少し湿ったそれは、唇の感触だ。

「おやすみなさい、カカシさん」

囁くようにそう言って、イルカが離れていった。床へ敷いた、布団へ潜る音がする。
残されたカカシは瞼を閉じたまま、え、え、と混乱の渦にいた。
いや、好きってそういう? イルカ先生、男が好きな人だったの? だからって、なんで俺?
次々に浮かぶ疑問を声に出すこともできず混乱するカカシをよそに、イルカはすやすやと寝息を立て始めている。
ちょっと待ってよイルカ先生、寝つき良すぎでしょ。置いてくなんてひどいじゃない。今までそんな素振り見せたこともないのに、何でそんなことしちゃうのよ。
内心で百面相をするカカシは結局、明け方まで眠りにつくことができなかった。


◇◇◇


「馬鹿なことを言うんじゃないよ」

開口一番、綱手から放たれたのはそんな冷たい台詞だった。
執務机の向こうで不愛想にカカシを睨みつける綱手の後ろで、付き人のシズネが申し訳なさそうに両手を合わせている。その腕の中の子豚も心なしか青ざめているようだ。
入院を経て回復し、さあ働けとばかりに火影室へ呼ばれたカカシだ。任務を言い渡される前に先日体験した妙な出来事を里長に相談したところで、先の台詞を浴びせられたというわけだ。
無論、イルカが最後に言った言葉については報告していない。あればっかりは聞き間違えかもしれないからだ。

「本当なんですって、冗談でこんなこと言うと思います?」
「思うね。お前、チャクラ切れで幻聴が聞こえたんじゃないのかい」

だからって仕事は減らせないよ、と綱手が渋い顔をする。

「そんなわけ無いでしょう。何なら証明してみせますよ」
「じゃあ証明してもらおうじゃないか。シズネ、イルカを呼びな」
「でも綱手様、この後も予定が詰まっていますし……」
「いいから呼んでくるんだよ。幻聴だって納得させないと、こいつは任務に行かない気だよ」
「幻聴ではありません」
「ほら、早くおし!」
「は、はい」

カカシに気の毒そうな視線を向けながら、シズネがぱたぱたと執務室を出て行った。もしや、昔馴染みである彼女にも幻聴だと思われているのだろうか。だとしたら少し悲しい。
二人きりになったところで、綱手が執務机に両肘をついた。

「で、心当たりはあるんだろ?」
「はあ、一応」

おそらく先日の任務の最後、抜け忍に仕向けられた技が作用しているのだろう。咄嗟に写輪眼でコピーした印を記した紙を、綱手へ差し出す。
医療忍であるのと同時に、教授と呼ばれた忍びの弟子であった女傑はその紙片を眺め、ふん、と鼻を鳴らした。

「どうやらあながち嘘でも無さそうだ。カカシ、これはね」

そこまで綱手が言ったところで、カカシの耳にあの声が聞こえてきた。膜を一枚挟んだ向こうで、少し高めの声が焦りを帯びている。

(何の用だろ、俺何かやっちまったかな)

「あ、来ましたね」

カカシが言うが早いか、執務室の扉がノックされる。

「おや、早いね。お入り」

綱手の目配せを待たずして、カカシは気配を消し天井裏へ身を潜めた。
と、同じく天井裏に控えていた暗部の男が、少し離れたところで片手を上げる。見知った面に会釈を返し、天井板の隙間へ互いに視線を落とした。
静かに開いた扉から、声の主が顔を出す。

「お呼びでしょうか、五代目」

後ろから入ってきたシズネに促され、うみのイルカが執務机の前に歩を進めた。
そういえば三代目存命の折にはこの部屋でイルカの姿を見かけることも何度かあったが、代替わり以降は初めて見るかもしれない。

(久しぶりだな、この部屋に入るのも……もしかして、こないだの授業で演習場のネット壊したのが問題になったんじゃないだろうな。いや、それとも校庭の――)

あれやこれやと小さな失敗を心の中で連ねるイルカの、少し緊張した様子にちくりと胸が痛む。数日前、彼の部屋から病院へ運ばれた時にカカシはすっかり意識を失っていて、今日まで礼を言うこともできずにいるのだ。

「何、たいしたことじゃない。これを見てくれるかい」

天井裏からは死角になるよう、綱手がイルカへ向けて書類を示していた。
それを見たイルカの肩が、ほんのわずかぴくりと強張る。

(あっ、これはコハル様の……いや、俺が勝手に言う訳にはいかないよな)

カカシにだけ漏れ聞こえた声はどこか焦りを帯びていた。里の上役の名前が出ていたが、綱手に知られてはまずい内容なのだろうか。

「どうだい、お前なら心当たりがあるんじゃないかと思ってね」
「いえ、申し訳ありませんが私には……。他の者にも聞いてみますので、後日ご報告させていただけないでしょうか」
「いや、お前はそこまでしなくて良いよ。こちらで個別に当たってみよう。忙しいとこ悪かったね、用件はこれだけだ。下がって良いよ」
「はっ、お役に立てず恐縮です」

綱手に一礼したイルカが、くるりと身を翻す。身体の動きに合わせて頭上のまとめ髪がぴょこりと揺れて、どこか尻尾のようにも見えた。
静かに扉が閉まる。ああ緊張した、と心の中で呟く彼の声が遠ざかっていくのを聞きながら、カカシはひらりと室内へ降り立った。

「何だったんです、さっきのは」
「イルカの心の声ってやつはどう言っていた?」
「コハル様がどうとか……何か躊躇しているようでしたけど」
「そうかい、やはりコハル様か。あのお方が素直に認めるとは思えんが……。それはそうと、カカシ。あたしはお前を信じるよ」
「はぁ」

綱手とシズネが顔を寄せ合いひそひそと話しているのを見ながら、カカシは首の後ろをぽりぽりと掻いた。

「あのー、俺のせいでイルカ先生がまずいことになったりはしませんかね」

常ならぬ様子を見せる二人に口を挟むと、綱手がいや、と首を振った。
続けて、先ほどイルカへ見せていた紙面をずいと差し出してくる。

「何ですか、これ」

一行目に大きく『督促状』と書かれたその紙面には、ざっと見て二十件ほどの金額が記されていた。どれも、決して小さくは無い額だ。
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「見りゃ分かるだろ、督促状だよ。差出人は火の国の城下町にある『元祖甘々屋』だ」
「聞いたことはあります」

木の葉の里にも支店を持つ大店だ。その本店が、どうして里宛に督促状を送ってくるというのだろう。里の備品は経理班が適切に流れを管理しているはずだ。
疑問を口にする前に、シズネが経緯を説明してくれた。

「どうも、一年前――三代目がご存命の折にですね、本部付けで頻繁に利用していたようなんです。でも経理班を通さずに里の本部名義でツケにしちゃってて……。督促状が来て初めて分かったんですけど、額が額なので公金からは出せませんから、犯人を調べようとしていたところだったんです」
「元々イルカにも話を聞こうと思っていたんだ。三代目には可愛がられていたようだからな。やっぱり知ってただろ? 調査の手間も省けて、お前の言い分の裏付けも取れて一石二鳥さな」

ふん、と鼻を鳴らす里長に向かって曖昧に頷きながら、カカシは「それで」と続けた。

「俺はどうしてこんなことになっちゃってるんですかね」
「大体予想はついてるんだろう? 術を跳ね返し損ねたのさ」
「ああ……」

綱手の指が、先ほどカカシが渡した紙片の上、印をなぞるように辿っていく。

「山中一族に伝わる技の亜種ってところだろうね。他人の心の中を読み取る術さ。あたしが見聞きしたものとは少し違うから……どうやらその抜け忍はお前の精神に干渉して、操作しようとしたらしいね。寸でのところで弾き飛ばしたお前が、逆に相手の心を読めるようになったってわけさ」
「でも、イルカ先生だけですよ」
「お前、敵と遭遇した後、最初に出会ったのがイルカだっただろう? 術の対象者は一人だ。そういうことだよ」

そういうことと言われればはぁ、と言うほか無いのだが、カカシは内心ううんと唸った。
厄介な状況に陥った自分をたまたま拾ってくれたイルカに、申し訳なさが募っていく。ただ心の声が聞こえるだけでなく、彼の心のかなり繊細な一部も知ってしまったのだ。
長くて一週間程度で解けるだろう、とのお墨付きをもらい、ついでのように任務を言い渡されたカカシはとぼとぼと出口に向かう。

「ある程度離れりゃ聞こえないっていうのなら、近づかなきゃ良いだけの話じゃないか」

最後にそう投げかけられた言葉には曖昧に頷いておいた。
確かにその通りだが、返したい恩もある。カカシが復帰したことは、任務受付担当のイルカも知ることだろう。元気になったのに礼のひとつも言わないのは義理に反する。

「参ったね、こりゃ」

廊下を歩きながらがりがりと頭を掻くカカシに、すれ違う事務官が怪訝な視線を寄越して行った。


◇◇◇


執務室での一件から三日後の、夕刻。カカシはアカデミーの正門で所在なく佇んでいた。
昼過ぎに任務から戻って仮眠を取り、迷った挙句にやって来たところである。目的はイルカだ。
アカデミーの教職だけでなく受付業務も担っている彼の帰りが何時ごろになるかは知らないが、会えるまで待っていようと思っている。任務明けは一応非番になるので、夜遅くなっても構わない。
本来の下校時刻は過ぎているようだが、時々ちらほらと出てくる生徒の怪訝な視線が痛い。
そんなに怪しいかね、俺。
片手に怪し気な表紙の文庫本を持ち、右目しか晒さずに言う台詞では無いかもしれない。それでも、まだ下忍にもならない子供の純粋な瞳は思ったより胸に刺さった。
頭上でカラスがカァ、と鳴く。せっつかれているようで、カカシは胡乱な視線を空に向けた。
一番の目的は彼に先日の礼を言うことだが、その裏で解術を試みようとしている。綱手は一週間程度で自然と解けると言ったが、それまで悶々と過ごすのは勘弁願いたい。
山中一族の派生の術であるなら山中いのいちに相談すれば早いのだろうが、子細を伝えるのが憚られた。あまり大事にはしたくない。自分の持つ知識の範囲で解術が適うなら、それで済ませたいのだ。
空が赤から藤色に変わろうとする頃、ようやくアカデミーの玄関に待ち人の姿が現れた。どうやら、彼一人のようだ。
カカシは目が滑るだけだった文庫本から顔を上げ、門柱の影から身を出す。
玄関から門に向かって真っすぐ歩いていたイルカは、カカシを見るや慌てたように駆け出してきた。
一つにまとめた髪をぴょこぴょこと揺らしながら駆け寄る彼が近づくにつれ、カカシの耳に焦ったような声が聞こえてくる。

(何でカカシさんが、誰か待ってんのか? まさか、俺?)

当たり、と声に出さず呟きながら、カカシは彼に向って片手を上げた。

「どーも、お疲れ様です。イルカ先生」
「お、お疲れ様です。どうされたんですか」

さすがに息を荒げたりはしていないが、イルカは驚いたように目を見開いている。元々あまり大きくは無い瞳がくりりと丸くなっている様は、少し幼い。

「先日はありがとうございました。世話をおかけして申し訳ない」
「あ、いや、とんでもないです。お身体はもう大丈夫なんですよね」
「ええ、おかげさまで。大変だったでしょ、俺重くて」
「いえ、それは全然……というか、覚えてらっしゃったんですね、俺のこと」
「え?」
「あの時は朦朧としてらっしゃったから……てっきり忘れていると思っていたので、驚きました」

へへ、と鼻傷を掻きながら、イルカが言う。
そうか、忘れていると思っていたのか。そうとは思いもよらなかった。確かにカカシからはイルカの声が丸聞こえだったが、彼にしてみればこちらは意識不明の病人だ。
綱手の言う通り、自然に術が解けるまで接触を断っていても問題無かったようだが、ここまで来てはそうもいかない。
カカシは恐縮するイルカと言葉を交わしながら、背中に回した手で先ほどから解術を試み続けていた。イルカに悟られないように様々な印を試しているが、会話の合間にも(こんなところで立ち話なんて悪いかな)とか(どれくらい待たせちまったのかな)とか、イルカの声は聞こえ続けている。
そうして、十ほど空振りに終わったところで会話が途切れた。
やはり無理か、と内心項垂れた時、イルカがおずおずといった風に口を開いた。

「もしかして、このためだけにわざわざ待っていてくださったんですか」
「あー、はい、まあ」
「却ってすみません、任務明けでしたよね」
「いや、俺がそうしたかっただけで」

それは本当のことだ。イルカが気に病む必要は無い。
こんなことなら手土産でも持ってきたら良かった。解術にばかり気を取られて、そこまで気が回らなかったのは痛い。
また機会があれば何か渡せば良いか、と結論付けたカカシに、イルカが「あの」と声をかける。

「良かったら飯でも食いに行きませんか」

その声が少し硬いと思うのは、彼の心の声が聞こえているからだろうか。

(よし、言った、言えたぞ。こんなチャンスもう無い。頼む、行くって言ってくれ……!)

控えめに笑う表情とは裏腹の、どこか切羽詰まった様子のその声に押されるようにして、カカシは頷いていた。

「あ、ああ、良いですよ。じゃあせっかくなんで、奢らせて下さい」
「えっ、いや、そんなつもりじゃ」
「まあまあ。俺、手ぶらで来ちゃったんで、それくらいさせてもらえると助かります」
「うーん、そうですか……、じゃあお言葉に甘えようかな。あ、でも高いとこはやめて下さいよ。緊張するんで」
「はは、イルカ先生らしいな」

じゃあ、行きますか。そう言って並んで歩きだす。
期せずして返礼の機会を得たは良いが、隣を歩くイルカが平静を装いながらも(やったぞ!)とか、(大丈夫かな)とか、交わす言葉の裏で感情を上げ下げしているのが漏れ聞こえ、カカシは笑いをかみ殺すのに苦労した。
真面目そうに見えて、中々どうして面白い人じゃない。
寄せられる好意には戸惑っているし、心の声を聞いてしまう状況には罪悪感があるのだが、居酒屋までの道はカカシにとって久しぶりの楽しいひと時となった。


◇◇◇


(俺、場違いじゃないかなぁ……)

隣でグラスを傾けるイルカの心の声を聞きながら、カカシは小さく微笑んだ。
こじんまりした店は、カカシが選んだものだ。
繁華街の裏道、静かな通りにある小さな店には看板もなく、紹介が無いと入れない割には酔客で賑わっている。
高いんじゃ、とイルカは尻ごみしていたが、実際のところそう値が張る店でも無い。しかも今日はカカシが奢るのだから気にせずとも良いのに、飲み始めてしばらくした今になっても彼はどこか所在なさげだ。
古い知り合いに紹介されて通い始めたのだが、客同士が干渉し合うこともなく静かな空間はカカシの気に入りだ。できればイルカにも寛いでほしい。
そう思ってイルカを促し、二人揃ってビールから清酒に切り替える。
升の中央で、透き通った液体に満たされた小ぶりのグラスが目の前に置かれる。

(うわ、うまそ……)

「うまそうですね」

思ったことをそのまま口にするイルカにカカシは目を細める。

「でしょ、イルカ先生、いける口?」
「人並みにですが」
「じゃあ大丈夫」

そっとグラスを持ち上げ、イルカと共に口を付ける。滑らかな液体が舌の上をすうっと通り過ぎ、少し遅れて喉が熱くなった。
鼻孔を通る芳醇な香りを楽しむカカシの隣で、イルカが満足げにほう、と息を吐いた。

(嬉しいな、二人で飲めるなんて……夢みたいだ)

どこかうっとりとしたその声に、カカシは意味もなく足を組み替えた。間接的に伝わってくる好意はどうもこそばゆく、罪悪感と相まって腰の座りが悪くなる。

(ああ、やっぱり今日も格好いい……口布、下ろさないかな。下ろせ、下ろせ……ああ、だめか)

カカシがグラスへ口をつけるのに合わせて、分かりやすく落胆した声に笑いを嚙み殺す。食事中、実際は口布を下ろしているのだが、周囲にはそうと分からないように顔周りに幻術をかけているのだ。
子供の時分からほとんど習い性のように続けているが、今日ばっかりはこの幻術を解いても良かったかもしれない。実際カカシの素顔を見て、イルカがどんな反応をするのか見てみたい気持ちもあった。

(こないだ見とけばよかったかな、素顔。……なんてな)

どこか残念そうな声が聞こえる。イルカにならば素顔を見られてもどうってことは無いのだから、何なら今すぐ見せたって良い。しかし、突然口布を外せばイルカだけでなく、カウンターの内側に居る店主にも驚かれるだろう。カカシ自身、自分の行動に説明をつけられる自信がなかった。

「うまいですね、この酒」
「えっ? あ、ああ、そうでしょ。おすすめ。口に合って良かった」
「俺が普段呑んでる安酒とは大違いです」
「それはそれ、これはこれですよ。俺だって家に帰りゃあ目の前にあるもの適当に呑みますよ」
「ご自宅でも呑まれるんですね」
「時々ね。イルカ先生は?」
「俺も、はい、時々。仕事持ち帰ることが多いんで、しょっちゅうって訳じゃないですけど。でも家で呑むより、外での方が多いですね」
「イルカ先生慕われてそうですもんね、よく誘われるでしょう」
「いやいや、単に周りに酒好きが多いだけで」

両手にグラスを閉じ込めたまま、イルカが照れたように頭を振る。小さく揺れる髪に、また目が惹きつけられた。
イルカはああ言ったが、実際彼は人気があるのだろう。何せ、ごみ捨て場で倒れていたカカシを自宅で介抱するほどのお人よしだ。
普段の面々と酒を呑むときには、もっとくだけた表情も見せるのだろうか。今夜のイルカはまだ緊張気味だ。
もっと色んな顔を見てみたい。ふとそんな考えが浮かび、今度はカカシが頭を振った。
どうしました、とイルカが聞いてくるのに、いや、と頭を掻く。

(カカシさん、疲れてんのかな)

そういう訳じゃないのよ、と声に出さず答えながら、カカシは今しがた浮かんだ考えに動揺していた。
自分はただ礼を言いたくて、ついでに術を解きたくてイルカを誘っただけだ。決して、親密になろうと思ったわけじゃない。
それなのに、二人で過ごしたこの僅かな時間でぐいぐいとイルカに惹きつけられてはいないだろうか。
もしこれが彼の技なのだとしたら、そこらへんの上忍より厄介だ。
心の声が聞こえているから、というだけでは無い。仕事中の溌溂とした姿、張りのある声と違い、少し頼りなげで幼く見える振る舞いに、もっと彼のことを知りたいと思わされている。
これは天性のものだな、と思いながら、三代目がイルカを傍に置いていた理由も分かるような気がした。

「ここ、飯も美味いですね」
「そ、そうでしょ。今度誰か連れて来てあげると良いですよ。季節で出すもの違うから」
「そうなんですね、食べてみたいな」

(でも……せっかくカカシさんが連れて来てくれたんだから、誰にも教えたくないな)

塩焼きにされた小ぶりの魚をつつきながら、イルカが心の中でそんなことを言う。
可愛いことを言うんじゃないよ、と思いつつ、カカシも漬物をひょいと口へ放り込んだ。
もしイルカが直属の後輩だったら、物凄く可愛がったかもしれない。実際の後輩である黒目がちな男を思い浮かべても、あちらはあちらで可愛いが、イルカはまた種類が違うのだ。
こういう人こそ草忍に向いてるかもしれないなぁ、などと思考を飛ばしているカカシの隣で、イルカが店主と二言三言交わしていた。
いつも不愛想な店主すらこれだ、とカカシは小さく天を仰いだ。

(あ、カカシさん漬物の中で茄子だけ食ってる。好きなのかな。可愛い)

「可愛くはないでしょ……」
「え、何か仰いましたか」
「いーえ、あはは、何も」

思わず心の声に答えてしまった。イルカはそうですか、とすんなり頷き、今度は揚げ出し豆腐に箸を伸ばしている。

(他は何が好きなんだろう。聞いてみようかな、でも気持ち悪いかな)

そんなことないぞ、がんばれ、と励ましてしまいたくなる控えめさだ。カカシにしてみればこんな三十近い男に何を遠慮することがあるのかと思うが、イルカにとっては想い人だから、仕方ないのかもしれない。
それにしたってもう少しぐいぐいと来ればやりようもあるのに、と思ってしまうのは、自分が汚れているからだろうか。こんな甘酸っぱい駆け引き、ついぞ経験が無い。
それから数分悩みぬいたイルカが、えい、と思い切った時には拳を突き上げたくなってしまった。

「あの、カカシさんて何か好物とかあるんですか」
「茄子ですね」
「やっぱり。さっきからよく召し上がってるなと思ったんですよね」

にかりと笑うイルカが眩しい。
そういうところがちょっと子供っぽいんだよなぁと思いながら、カカシは何故か頬が熱くなるのを感じていた。

「まあ、そうね。イルカ先生は、何が好きなの」
「あ、俺ですか? 俺はラーメンですね、やっぱり」
「でしょうね」
「あ、呆れてますね? ラーメンはああ見えて完全栄養食なんですよ。野菜もとれるし」

イルカがふん、と鼻を膨らませる。その仕草がどこかナルトと重なって見え、カカシは小さく笑みを浮かべた。

「どうだか」
「疑うなら今度食べいきましょうよ! 一楽の新メニュー、野菜ラーメンなんですよ」
「野菜って、もやしだけだったりしない? でもいいですよ、奢ってくれるならね」
「じゃあ今夜のお返しってことでどうですか」
「それなら終わりが無くなるじゃない」
「あはは、違いない」

(よかった、誘えた。不自然じゃなかったかな)

楽し気に笑っているくせして、実際そんな風に心を揺らしているイルカにカカシの胸が小さく詰まる。
いちいち健気なんだよなぁ、とひとりごち、カカシはもうすぐ空になりそうなグラスに口をつけた。
互いにもう一杯ずつ酒を楽しんで、ラーメンは次のカカシの任務明けに、と約束を交わした。
会計を終え店を出た時にはとっぷりと暗くなっていて、ほんのり赤らんだイルカの頬が暗がりの中、つやつやと光って見えた。
これ以上一緒にいたらあまり良くない気がして、カカシはポケットに手を突っ込んだまま、じゃ、と口を開く。

「俺はここで」
「あ、はい! 今夜はご馳走様でした。すごく楽しかったです」
「そう、よかった」

じゃあね、と立ち去りかけたカカシに、「あの」とイルカの声がかかる。

「ラーメン、楽しみですね!」

口元は確かに笑っていた。しかし、カカシを見つめるその瞳は強く、どこか縋るようだ。
裏路地に不似合いな大声に、野良猫が足を止めこちらを見る。
体の脇でイルカがきつく手を握り締めているのに気付いた。
どうしてそんなに、強く手を握る必要があるのだろう。
どうしてそんなに、必死な目をしているんだろう。

考えて、カカシはふと納得した。
そうか、彼は恋をしているのか。

「……ええ、楽しみですね」

カカシの言葉に、イルカの表情がふっと緩む。
片手を上げ、今度こそ彼に背を向け歩き出す。

恋、ねぇ……

背中に感じる視線は熱い。
これまでの人生で何度も浴びた熱視線。そのどれよりも、厄介で、触れてはいけないものに感じた。


◇◇◇


「あらやだ、カカシじゃない」
「おっ、何してんだ」
「何って、見りゃわかるでしょ。今帰ってきたとこ」

繁華街の手前で声をかけられ、カカシは肩越しにそちらを振り返った。
少し離れたところに、上忍仲間のアスマと紅が立っている。既に一軒回った後なのか、どことなく機嫌が良さそうだ。
逃げようと思うが早いか、細い腕に肩をぐっと掴まれる。瞬身の如き速さで移動してきた紅の、酒臭い息がぷぅんと鼻をついた。少し遅れて、アスマも紫煙を燻らせながら歩いてくる。

「じゃあ付き合いなさいよ。どうせ暇なんでしょ」
「暇じゃないよ、俺は忙しいの」
「何だ、女んとこか」
「よしてよ、アスマじゃあるまいし」
「何の話?」

途端に視線を鋭くした紅がアスマに向き直るのを幸いに、カカシはするりと彼女の腕から逃れる。

「おいカカシ、勘弁しろよ」
「嘘でも無いでしょ。じゃ、俺ほんとに今夜は駄目なの」

紅に胸倉を掴まれ辟易した様子のアスマに手を振り、近場の屋根に飛び乗る。
カカシの存在など忘れた様子の紅に問い詰められている奴の姿は少し面白いが、ゆっくり眺めている暇もない。
実際、カカシの言ったことは嘘ではないのだ。このところ、アスマは任務から帰れば紅のところに直行している。素直にそう言って安心させてやればいいのに、どうも男女の関係は理解が難しい。
そういう自分も今夜はある一人の元へ直行すべく、鳴る腹を抱えて屋根を飛び移っているところだ。
本当なら今頃はラーメンで腹が満たされていただろうに。ちぇ、とでも呟きそうだ。
そう、今日はイルカと約束したラーメンの日だったのだ。
朝方任務から戻ってきたカカシはいつものペースで非番を過ごし、夕方にはイルカと一楽へ向かう予定だった。それが、昼過ぎに飛んできた式で叩き起こされ、暗号班の解読業務に駆り出されてしまったのだ。
カカシの知識が必要だと頼み込まれ、頷くしか無かった。
イルカに詫びの式を飛ばしたところ、むしろこちらの体調を心配する返事が飛んできて何とも申し訳ない気分になった。あの喜びようを知っていただけに、だ。
アスマ達が二軒目に繰り出す時間とあれば、一楽はもう閉店しているだろう。
今夜のために腹を空かせていたものだから、今にも腹の虫が鳴りそうだ。馴染みの店に顔を出そうかと思ったカカシだが、イルカの様子がどうにも気になり彼の自宅へ向かっている。
少し湿気を含んだ生温い風が目尻を掠める。
イルカの自宅、中忍が集まるアパートは里の中心に近かった。利便性に優れる分建物は古く、ところどころに亀裂が走っている。
そんな建物と向かい合う街路樹の枝に、カカシは静かに降り立った。風に吹かれ、葉がかさかさと音を立てる。
イルカの部屋は二階の角だ。先日、カカシが力尽きたごみ捨て場も、窓から顔を出せば見える場所にある。
明かりは既に消えていた。
まだ寝る時間には少し早く思えたが、疲れているのだろうか。それとも、カカシとの予定が無くなり、他の誰かと飲みに行っているのかもしれない。人気者の彼のことだから、その線の方が濃厚だろう。
ま、それならそれで。
罪悪感が少し薄れほっとする。自分も食事に行こうと枝を蹴る寸前、かすかな声が耳に届いた。

(……さん、カ……シ、さん……っ)

か細い声が、途切れ途切れにカカシの名を呼んでいる。
膜越しに聞こえるようなその声は、紛れもなくイルカが心の中で呟くそれだった。
何かトラブルでもあったのだろうか。
どこか切羽詰まったような響きに、反射的に警戒する。
周囲の気配を探るが、不審なそれは感じられない。聞こえてくる声もイルカのものだけだ。
より近くで探ろうと建物そばの枝へ身を移したカカシの耳に、今度ははっきりとした声が聞こえてきた。

(あ、あぁ……カカシさん、いやだ……)

上擦った、高い声。いつも彼から聞こえてきた落ち着いたそれとはまったく違う、甘い響きだ。
神経を研ぎ澄ませていたからか、彼の口から発せられる熱っぽい吐息までもが聞こえてくる。
わ、わぁ。
カカシは思わず唇を噛み締めた。そうでもしないと声を出してしまいそうだ。
自慰だ。イルカが自分を慰めている。
彼の自宅なのだから何をしようと自由だが、まさかそんなタイミングにかち合うとは思わなかった。
しかも、一度集中を始めた身体は次々に余計な音を拾ってくる。おそらくベッドの上にいるだろう、彼の肌がシーツと擦れる音。どこに何がなされているのか、くちゅくちゅという粘着質な音すら聞こえてしまう。
立ち去りかけた足を引き留めるほど、その音は生々しくカカシの頭に響いてきた。
安普請を厭うてか、イルカは直接的な声を上げない。しかし、その分胸の内で大胆に喘いでいる。カカシの耳には、そのすべてが筒抜けだった。

(あっ、あ……いい、気持ちいい……! カカシさん、カカシさん、もっと触って、ぐちゃぐちゃにして、俺のこと……っ)

ずきん、と股間が痛んだ。
慌てて見下ろす。プロテクター越しで見た目には分からないが、カカシのものは確かに兆し始めていた。
嘘でしょ、いや、駄目だろ。
頭の中ではそう思うのに、身体が勝手に窓際へとにじり寄る。
街路樹の上、ぎりぎりまで窓へ近づき、カーテンのかかっていないそこから室内を覗き込んだ。
彼のベッドは窓の真下だ。倒れたカカシを寝かせてくれた、あのベッド。
そこでイルカが窓に背を向け、身体を丸めている。長い髪は解かれ、白いシーツに散らばっていた。

「は……っ、ふ、ぅ……」

腹から顔にかけては布団を被っていたが、最中にずれたのだろう、腰から下は素肌が剥き出しになっていた。
形の良い尻が、切なげに揺れている。
股の間で忙しなく動いているのは彼の指だろうか。

(カカシさん、そんなに動かしちゃいやだ……っ、あ、ああっ、いい、いいっ)

股間に血が集中する。カカシはプロテクターの中でどんどん成長する愚息に、前かがみにならざるを得なかった。
口布の下、己の息すら荒い。
思いがけないポルノを目の前に、今にもそこへ飛び込みたい衝動がこみ上げる。それを必死で抑え、カカシは彼の痴態に見入った。
イルカの踵がシーツを蹴る。腰がじわじわと持ち上がり、尻の合間を穿つ指がはっきりと見て取れた。何がしかの粘液でてらてらと光る二本のそれが、ずぼずぼと容赦なく抜き差しされている。

(あっ、だめ、だめ、もう……いく、いっちゃう、カカシさん、見てて、見てて……っ)

びくん、とひと際大きくイルカの腰が跳ねる。続けざまにかくかくと腰が揺れ、つま先が痙攣するようにシーツを叩いた。
布団の下、上半身が緊張しているのがわかる。

「は、はー……」

やがて、気の抜けたような声が聞こえてくるのと同時に、カカシはその場を離れた。数軒隣の屋根で瞬身の印を組み、目を開けた時には散らかった自宅が視界に広がる。
股間は無視できないほど痛み、解放を訴えている。カカシは真っ暗な室内で、壁にもたれたまま下穿きに手をかけた。
動揺して手が滑る。こんなことは初めてだった。
ぱちん、と軽い音を立ててプロテクターが外れる。下着をずらすと、ぶるんっと勢いよくペニスが飛び出してきた。
血管が浮き出て、裏筋もこれ以上ないほど張り出しているそれは、今すぐどこかに突っ込ませろとでも言いたげだ。
雑に脱ぎ捨てた手甲が、二つ揃って床に落ちる。手で二、三度擦っただけで、先端にぷつりと透明な雫が浮かんだ。
即物的な光景を見てられず、目を瞑る。しかし、瞼の裏に浮かんでくるのは過去に抱いたどの女でもなく、今夜見たイルカの痴態ばかりだった。

「……くそっ」

乱暴に雄を擦る。あの浅黒く、形の良い尻にこれを突っ込んだらどれほど気持ちが良いだろう。
切なげな喘ぎ声、感じ入ったような吐息が耳にこびりついている。
本当に、あれがカカシの知るイルカだろうか。清潔で、真面目で、二人の時にはあどけなさすら見せるあの青年が、あんな風に乱れるのか。
何度もカカシの名を呼んで。女みたいに尻で達って。

「っ……!」

手の中に熱い飛沫を受け止める。
自分にこんな欲望があったとは思いもよらない。カカシは指の間から垂れ落ちる白濁を見て、小さく震えた。
ここ数年は岡場所へ行くこともなく、自慰すら稀だったのだ。
それが、あの男にこうまで昂らせられるとは。

「嘘だろ……」

ぽつりと呟いた声は、どこか恐れを含んでいた。


◇◇◇


「一週間、って言ったじゃないの」

火影岩の真上、見晴台から里を見下ろしながら、カカシは誰にともなく呟いた。
昼下がり、のどかな陽気だ。いつもなら文庫本片手にどこかで昼寝でもしているが、最近はそんな気分になれなかった。
里長に一週間程度で切れるだろうと言われた術の効果は、二週間経った今なお続いていた。
イルカの心の声が聞こえるという、あれだ。
秘密の夜を覗いてしまってからこちら、イルカと直接顔を合わせたのは数えるほどだ。そのどれもが受付で、二人きりプライベートで会うようなことはしていない。
それでも、カカシが受付に入るや否や(カカシさんだ)と名前を呼ばれることから始まり、自分の姿が見られるだけで嬉しいらしい彼の想いがダイレクトに耳に届いていた。
任務が立て込んでいたのは幸いだったかもしれない。どれも短期のものばかりだったが、間を開けず拝命したために自由な時間も無く、彼との約束も後手後手に回っていた。
イルカの秘密を覗いてしまった手前、顔を合わせるのがどうも気まずい。
できればこのまま約束を反故にしてしまえないだろうか、と思うカカシである。


しょっぱい湯気が口布をほんのりと暖めていく。
鍛錬所で夕暮れまで過ごし、腹の虫に促されるままやって来てしまった一楽でのことだ。もちろん一人で、連れなどいない。本来なら約束履行のためイルカの仕事が終わるのを待って誘うべきだが、今日もその気になれなかった。
この一時だけは、と憂いを忘れる。カカシはごくりと喉を鳴らして、ひといきに口布を下ろした。
同時に片手でぱちん、と割ったのは店主こだわりの竹箸だ。麺の口当たりが良くなるとか、ならないとか。
いつも幻術をかけ、口布のままを装って食事をするカカシだが、このラーメン店だけは別だった。亡き父と子供の頃に訪れていたからという理由がひとつ、店主の人の好さと口の堅さを信用しているというのがひとつ。
そういう訳で、里でも数少ないカカシの素顔を知る人物であるところのテウチが目の前に置いてくれた器に左手を添える。
野菜ラーメン、では無く、チャーシュー麺だ。良い色の煮玉子も追加してある。
箸で掬い上げたつやつやの麺にふうふうと息を吹きかけ、ずずっと一気に吸い上げた。
うまい。いつ食べても塩気とうまみのバランスが絶妙だ。
カカシはそれほど麺類が好きなわけでは無いが、この店のラーメンだけは何日か続けて食べても良いなと思う。無論、そんな子供みたいな真似はしないが。
二度、三度と啜り上げたとき、背後にふわりと風が吹いた。

「こんばんはー」
「おっイルカ先生。三日連続だな。今日はずいぶん早いね」
「たまには早く帰れって、五代目に言われちまったらねぇ。せっかく早く帰れてもそろそろ財布が厳しいや。今日はしょうゆで!」
「月末になるといつもそうなんだからなぁ、イルカ先生は」

わはは、と店主と笑い合いながらカウンターに腰を下ろしたのは、イルカだった。丸椅子を三つ挟んだ距離だ。
待てよ。三日連続と言っていなかったか。子供みたいな真似を地で行く男の登場に、カカシは少なからず動揺した。
できれば会いたくないと思っていた相手だ。約束だって果たせていないのに、抜け駆けのようにこの店に居るのも気まずい。
それなのに彼のテリトリーとも言える場所に来てしまったのはカカシの落ち度でしかなく、どうにか気付かれないように気配を殺す。が、

「あれ、カカシさんじゃないですか」

狭い店内、しかも同じカウンターに並び座る同士として気配を消せるはずもなく、あっさりと見つかってしまった。
カカシは心を落ち着けつつずずっと麺を啜り、時間をかけて咀嚼してからイルカの方を振り向いた。

「や、どうも」
「お疲れ様です。偶然ですね! やっぱりこんな日はラーメンに限りますよね」

こんな日、とはどういう日だろう。そもそも三日連続ここへ来ているらしいのに、こんな日も何も無いんじゃあないか。今日は曇り空だが、昨日は雨だったしその前は快晴だった。
イルカの笑顔に目を奪われそうな言い訳に、屁理屈ばかりが頭を巡る。

「はあ、まあ、そうですね」

カカシは曖昧な返事すると、また視線をラーメンに戻した。その動作だけで察したらしく、イルカはそれ以上話しかけてはこなかった。
さすが、生粋のラーメン好きだ。カカシが麺の伸びるのを厭うているのだと思ってくれたらしい。
けれど、たとえイルカが口を噤んでも、カカシにはあまり意味が無い。

(珍しいな、カカシさんと一楽で会うなんて……しばらく任務続きだったから、里の味ってやつが恋しくなったのかな)

里の味、すなわち一楽のラーメンだと決めつけてほしくはないが、心の声に訂正するわけにもいかない。
カカシがずるずるとラーメンを啜るうち、へいおまち、と威勢の良い声と共にイルカの前にも同じ器が置かれた。
一見して、カカシのチャーシュー麺よりあっさりとした見た目だ。良かったら俺のチャーシュー一枚どうですか、煮玉子も。そう言いたいのを咀嚼で誤魔化す。

「いただきます!」

ぱちんと手を合わせてイルカが言う。心なしか声が弾んでいた。本当にラーメンが好きなんだなぁと半ば呆れながらも、その声にどこか頬が緩むのを感じる。

(よっし食うぞー! カカシさんも美味そうなの食ってたなぁ、ちょっとほっぺた赤くなってて意外と可愛い……って、俺なんか見落としてるような……あれ、ほっぺた? あれっ!?)

ずずっと麺を啜り上げたイルカが、音が鳴りそうな勢いでこちらに振り向くのと、ぶほっという破裂音が響くのとは同時だった。

「ちょっとイルカ先生! 大丈夫かい!? おいアヤメおしぼり持ってこい!」
「げっほ、す、すびば、うぇっほ!」
「もー、どうしたんですかイルカ先生、ほら拭いて拭いて」

看板娘のアヤメが運んできたおしぼりで顔を拭くイルカは、それでも麵だけは口から零さなかったらしい。顔を真っ赤にしながらももぐもぐと咀嚼するのに、店員の二人は呆れ顔だ。
カカシはというと、彼らの手際の良さにすっかり声をかけるタイミングを見失い、むせかえるイルカを呆然と見つめるばかりだ。
ラーメンでむせるなんて、子供じゃないんだから。
三日連続でラーメンを食べてみたり、そのラーメンでむせてみたり。
カカシにしてみればまるきり子供のような場面ばかり見せてくれるイルカだが、何故だか放っておけないような気にさせられる。
本当なら今だって、カカシが彼の顔を拭き、背中をとんとんと叩いてやりたい。
どうしてそれができないのだろう、と知らず握った手の中で、指先が布地に食い込んだ。
あんなに避けていたのに、いざ目の前に現れれば動揺し、自分の素顔を見てラーメンを吹き出すイルカにそわそわとさせられる。
参ったね。
何度目になるか分からないぼやきを抱えながら、カカシは脂の乗ったチャーシューを箸で摘まんだ。

(どうして顔出してんだよ……! びっくりした、本当にびっくりした……)

仕切り直して食べ始めたイルカと並び、表面上はずず、ずず、と互いに無言で麺を啜っている。
彼は、今度はこちらを見ないようにしたらしい。若干身体を斜めにし、カカシの方に背を向けている。
それでも心の声は雄弁で、ずっとこの調子でカカシを詰っている。そんなに素顔が見たかったとは知らなかった。
いや、いつだか居酒屋でも言っていたか。心の中で、だったが。
こんなに驚かせてしまうならさっさと見せてやれば良かったなと思いつつ、タイミングとしてはいつが相応しかったのかと考えるも答えは出ない。
そもそも、二人きりになったこともまだ二度しかないのだ。一度目はカカシがチャクラ切れを起こした時だし、二度目はあの居酒屋だ。
三度目、がこのラーメン店になるはずだった。当初の予定である新商品をまだ試していないからには、また機会を設ける必要があるのだろうか。
そこまでして食べたいかと考えているうちに、カカシの器が空になる。意図せずスープまで飲み干してしまった。腹の中がいつになく重い。
少し悩んで、口布を引き上げた。視界の端で、イルカがぴくりと肩を揺らす。

(もう、行っちまうのかな)

行っちまうよ、ごめんね。
心の中で呟き、カカシは店主に声をかけた。ぴったりの金額を台に置いて、立ち上がりざまイルカに声をかける。

「じゃあ、お先に」
「はい、また受付で」

視線は合わなかった。イルカが顔を上げなかったからだ。
カカシが去るのを惜しんでいたくせに、そんなあっさりと引き下がるのか。
理不尽なことだと自分でもわかるが、そう思わずにいられなかった。
カカシには恋が分からない。けれど、イルカは知っているのだろう。ならば、なりふり構わずそれをぶつけてほしい。
他人からの感情など面倒だと思っていたはずだった。過去の辛く、苦しいばかりの経験でカカシの心を硬い殻で覆っている。
しかし、彼なら、イルカならこの殻を突き破り、何かを引きずり出してくれるような気がしていた。
勝手な妄想だろうか。それでも、このもやもやした思いを晴らしてほしかった。
店ののれんをくぐり、乾いた地面に転がる石ころを軽く蹴る。ころころと回転したそれは、向かい側からやってきた子供のつま先に当たり、どこかへ転がっていった。
視界から消えた小石に、馬鹿ばかしいと分かっていても自分を重ねる。滑稽だし、みじめだ。
そのままゆらゆらと思索の海に沈もうとしたカカシを、海に落ちる寸前で引き上げたのは背後から走り寄る気配だった。

「カカシさんっ!」

ある意味で希望通りのような、しかしどこか耳を塞ぎたいような声がカカシの名を呼ぶ。イルカに追いかけてもらうことを狙って、わざとそっけない挨拶だけで店を出たのは自分だ。
姑息な手を使った自分を軽蔑しながら、カカシはゆっくりと後ろを振り返った。

「良かった、間に合った」

傍まで来たイルカが息を弾ませる。食べてすぐに追いかけてきたのだろう、彼からはまだラーメンの匂いがした。

「どうしたの、そんなに急いで」

何がどうしたの、だ。平然とそんなことを言ってのける自分に腹が立つ。
カカシの思惑も知らず、イルカは一瞬目を見開くと、すみません、ときまり悪そうに鼻傷を掻いた。その様子に罪悪感がむくむくと膨らむ。
自分への苛立ちを上回る罪悪感に諸手を上げ、カカシは彼の言葉を遮った。

「いや、俺が悪かったよね。店で待っていたら良かった。こないだの約束、俺のせいで駄目になっちゃったし」
「そんな、任務だったんですから」
「ちょっとくらい怒ってもいいのに、優しいよねイルカ先生。俺が悪い奴だったらいいようにされちゃうよ」
「またまた、そんな」

慌てて頭を振るイルカが眉を寄せる。

(カカシさん、怒ってんのかな。俺、やっぱりしつこかったかな)

ほらみろ、イルカが困っているじゃないか。
いつもより早口になっている自覚はあった。口を滑らせている自覚も、だ。
会話が途切れる。
二人の間に落ちた沈黙は他人にとっては邪魔にしかならないようだ。夕刻、忙しい里の人々が怪訝な顔で二人を見て通り過ぎていく。
邪魔だろうな、こんな道のど真ん中で男二人立ち止まって。
ぼんやりそう思いながら顔を上げると、商店の並びにある看板が視界に飛び込んできた。

「ちょっと待ってて」
「えっ、あ、カカシさん」

慌てるイルカを置いて駆け出す。と言っても小走りだ。目的の店まで、数メートルも無い。
目に付いたものを二つ手に取って、会計を済ませると早々に店を出た。相変わらず往来の真ん中で佇んでいるイルカの元へ戻るのに、五分もかからなかっただろう。

「これ、こないだのお詫び」

ずい、と黒い紙袋を差し出す。イルカは始め戸惑っていたが、カカシが手を引っ込めないと知るやおずおずと受け取ってくれた。

「わ、すごい高い酒じゃないですか、こっちも」

茶と緑のつややかな四合瓶をそれぞれ覗き込みながら、イルカが興奮したように言う。
なるべく値の張るものを選んだ甲斐はあったらしい。
とりあえず喜んでもらえてほっとしたものの、今度はこの場で別れを切り出すタイミングが分からなかった。
約束を反故にした詫びは、これで済ませたと思って良いだろう。ならば、もう彼と突っ立っている理由は無いはずだった。
けれど、どうにも言葉が出てこない。立ち去る方法ならいくらでもあるはずなのに、足は地面をじりじりと踏みしめるだけで、普段の俊敏さのかけらも出せていない。

(カカシさん、気遣ってくれたんだな)

じわりと、染み入るような声が聞こえてきた。イルカの心の中からだ。

(わざわざこんなことしなくても良いのに……良い人だ)

良い人なのはあんたでしょ、と喉元まで出かかった。
打算ばかりのカカシの振る舞いを、イルカはいつも真っ直ぐ受け止めてくれる。元来の彼の性格からなのか、それともカカシのことを好いているからなのだろうか。
分からない。分からないよイルカ先生。
俺はあなたの前でどう振舞ったら良いのか、まるで分からない。
荷を失った両手を、ポケットへねじ込む。
背を丸めたカカシの背に、どんっという衝撃があった。

「あらやだ、ごめんなさいね。気付かなくって」
「いえ、こちらこそ申し訳ない」

孫らしき幼児を連れたご婦人がぶつかったのだ。普段ならあり得ない失態に舌打ちすら出てこない。
よろけかけた女性の背に手を添え、カカシは小さく頭を下げた。
足元では折り紙を持った子供がぽかんとした顔でカカシを見上げている。覆面が珍しいのだろう。
年端のいかない子供に慣れないカカシの脇から、イルカがぴょこりと顔を出した。

「あれ、ダイズの妹じゃないか。大きくなったなぁ。兄ちゃん宿題やってたかい?」
「ううん、あそびにいっちゃった。あたしもいきたかったのに、だめー!って」
「そうかそうか、先生が明日兄ちゃんにゲンコツしといてやるからな」
「げんこつー!」
「まあまあ」

ほほほ、と笑うご婦人と幼児とイルカ。どうやら生徒の家族だったらしい。
およそ忍びに見えない里民とそつなく会話を交わすイルカは、カカシと居る時とはまた別の顔だった。ほがらかで、真面目な青年。カカシが最初に抱いたイメージそのままだ。
あの夜覗き見た、悩ましい姿と同一人物とはとても思えない。
一瞬浮かんだイメージに慌てて頭を振る。何を考えているんだ、本人が真横にいるのに。
カカシは今こそ、と立ち去ろうとした。だが、二人に別れの挨拶をしたイルカが、こちらに振り返って笑顔を向ける。

「じゃ、行きましょうかカカシさん。ここにいても邪魔ですし」
「え、あ、そうね」

気付けばご婦人と少女はこちらへ背を向けていた。
促されるまま彼の隣を歩き出す。
そうね、と言ったものの、この先の考えなどまるで無かった。任務ならいくらでも先が読めるというのに、彼の前ではどうも調子が出ない。
日暮れの近い往来は、家路を急ぐ者やこれから街に繰り出す者とで賑わっている。端から見て、自分たちはどのように映るのだろう。友人、それとも同僚か。
間違っても恋人同士には見えないだろうなと独り言ちるカカシの隣で、イルカが物も言わずに歩いている。
その心の中、彼の逡巡する声が聞こえていた。雑踏の中でもどこか異質なその声は、聞き間違えようも無い。

(明日も待機だったよな、カカシさん。でもなぁ、さすがに明日は任務入るだろ。今日はもう帰って休んだ方が良いよな。でも、でも……)

カカシをちら、と見る横顔にどきりとする。
酒を呑んだわけでもないのに、目尻が微かに赤らんでいた。意を決したように口角が上がるのが、やけにゆっくりと見えた。

「あの、カカシさん」
「はい?」
「よかったら、この酒一緒に飲みませんか。……いや、あの、せっかくいただいたので、本当、お暇だったら、ってことで」

(わーっ、言っちまった、やめときゃよかった、無理だろ、無理だよなぁ)

段々としりすぼみになる言葉の裏で、彼の動揺が伝わる。
ここで断ってしまえば、この関係は簡単に切れるはずだ。ごめんね、用があるから。それだけで良い。
なのに、気付けば「はい」と答えていた。
ほんとですか、と跳ねる勢いのイルカの顔に、笑顔が広がる。もやもやした霧が晴れるような、暖かな笑顔だと思った。



イルカの自宅へ上がるのは二度目だ。
一度目は寝たきりだったため、玄関からの景色が新鮮に映る。
小さな三和土で靴を脱ぎ、板間の台所を横切って居間に上がる。他人の家の匂いだが、不思議と違和感が無い。
部屋を仕切る襖の奥に寝室が見え、咄嗟に視線を外した。今はただ薄暗いだけの部屋なのに、いけないものを見た気分だ。
彼の秘密を覗いたあの夜は未だカカシの中で生々しい記憶だ。ベッドの上で悩ましく乱れる姿、カカシを呼ぶ切羽詰まったあの声。
やはり来るべきでは無かったと思うが、もう遅い。いつだって墓穴を掘るのは自分なのだ。
促されるまま座布団へ腰を下ろすと、目の前の卓袱台に陶器でできたぐい飲みがひとつと、それより一回り大きなグラスがひとつ置かれた。

「手伝いますよ」
「いえ、俺がお招きしたんですから。ゆっくりしててください」

いつもより少し早口にイルカが言う。
まだ酒も飲んでいないのに、その頬は上気していた。
飴色の天板に置かれたグラスを見つめる。ふたつとも、彼が普段から使っているものなのだろう。ぐい飲みがひとつしか無い、ということに心のどこかで安堵が広がる。イルカは、いつも人を招いて宴会を開いているわけではないらしい。

「誘っておいて何ですが、あまりつまみらしいものは無くて」

鼻傷をぽり、と掻きながら、イルカが盆にいくつかの小皿を乗せてきた。木盆は使い込まれ、角が剥げている。

「さっきラーメン食ったばかりですから、お構いなく」
「あっ、ああ、そうでしたね」
「イルカ先生、三日連続でしたっけ? 聞きましたよ。ちゃんと野菜も食べなきゃ」
「ははっ、聞かれてましたか。お恥ずかしい」

イルカが照れ笑いと共に肩を竦める。その仕草が子供のようで、カカシの胸を擽った。さっきはあんなにしっかりした口調で、生徒の家族に接していたのに。

「じゃ、乾杯」

斜めに向かい合って座ったイルカが、グラスを持ち上げる。その声にはっとして、カカシは清酒が注がれたぐい飲みを顔の高さに持ち上げた。同時に、口布を顎まで引き下ろす。

「乾杯」

視線を合わせた途端、イルカが額まで真っ赤に染まる。素直なその様子に、自然と口角が上がった。

「か……ん、ぱい……っ」

(かお、顔……!)

ぐい、と一息にグラスを煽った彼が、それを卓袱台に戻すタイミングでまた視線が合う。
半端に口を開いて目を左右させる男に無性に触れたくなった。
そんなに慌てなくてもいい、こんな顔でよければいくらでも見せてやるから、と囁いてやりたい。
カカシはぴくりと動いた指先を陶器に添え、自分の感情を誤魔化すようにゆっくりと瞬きをした。



しばらくはカカシの素顔に動転していたイルカだったが、半刻ほど経った頃には慣れたようだった。やかましいほどの心の声は落ち着き、普段の様子を取り戻している。
以前店で飲んだ時と違い、自宅での彼はやや饒舌だった。
ちょっとした笑い話から忍術の話まで、裏表のないトーンでこちらに明るく話しかけてくれる。カカシもそれに応じるうち、気付けば二本目も残り半分まで減っていた。
窓の外もすっかり暗くなり、暇乞いをするには良い時間だ。
気構えていたのが無駄に思えるほど楽しい時間を過ごせたが、これ以上長居するのはやめておいた方が良いだろう。
酒の力で態度を緩めていくイルカの、下がった目尻や甘えたような声音に触れるたび、カカシの中で疼くものがある。酒で己を失うカカシでは無いが、だからこそ今夜何かあったら言い訳ができない。
気持ちをぶつけてほしいと思っていたはずが、いざ好意を覗かせられるとたじろいでしまう。嫌悪感では無い。彼へ惹かれている自分に戸惑っているのだ。
じゃあそろそろ、と言いだそうとした時だ。

(あー、幸せだな……帰したくねぇな……)

卓袱台に顎を預けたイルカが、とろんとした目つきをカカシに向ける。
いつもはきつく結んでいる髪が、ひと房額に零れ落ちた。
酒が過ぎたのか、目には薄っすら涙すら浮かんでいる。ごくりと、生唾を呑み込む。
まずい。これはいけない。

「俺、そろそろ」

渾身の力で声を絞り出す。
途端に、イルカが慌てたように身体を起こした。

「あ、はい。楽しかったです。すみません、急に」
「いやいや、俺こそ。イルカ先生ってお酒、好きなんだね」
「えっ、あ、好き、好きです。って、あ、酒……そう、酒が好きなんです」

視線を落としたイルカが、鈍い笑顔を浮かべる。

(好きだよ、好きだ、あんたのことが……帰っちまうのか……嫌だな、寂しい……)

剥き出しの好意が耳に、心にぐさぐさと刺さる。
無理やりな笑顔を顔に貼り付けて、心の中でそんな切ない声を出さないでほしかった。今の自分には、とてもじゃないが耐えられない。
じわじわと頬に熱が集まる。口布を下ろしたことを初めて後悔した。
カカシは立ちあがりかけ、わざとよろめいた。卓袱台に片手をつき、あれ、とイルカに笑ってみせる。

「や、やっぱり、泊まっててもいい? 飲みすぎちゃったみたい」
「えっ! そりゃもう、もちろん!」
「あはは、ありがと、ね」

こんなわざとらしい芝居をしたのも初めてだが、あからさまな茶番をそのまま受け入れてくれる相手も初めてだった。

(やったぁ! すげぇ嬉しい、だめだ、喜びすぎちゃ変だろ。クールに、クールに……)

イルカの喜びと自制とがそのまま伝わり、思わず笑いそうになるのをどうにか堪える。
少しもクールに振る舞えていないイルカが、風呂の準備をすると言っていそいそと立ち上がった。
カカシよりもよほど足元の覚束ないその後ろ姿を見ながら、自分の胸に手を当てる。この胸を開いて自制心を取り出し、鋼で固めておきたいような気分だった。


◇◇◇


風呂場から聞こえる水音に混ざる小さな息遣いを、聞き逃すカカシでは無かった。忍びの習性から勝手に耳が拾ってきてしまう、ともいえる。
遠慮したもののカカシが先に風呂を借りることになり、入れ替わりでイルカが今風呂場に居るところだ。
寝室の床に敷かれている布団はイルカが使うそうで、カカシはやはり遠慮したものの、勧められてベッドの端に腰を下ろしている。
先に寝ていてください、と言われたが、それは到底無理な話だった。

(ああ、カカシさんがいるのに……)

ざあざあというシャワーの音に混ざって、先ほどから聞こえてくるのは消えそうな息遣いと、イルカの心の声だ。
風呂上がり、着替えに迷い半裸で顔を出したのがまずかったらしい。顔を真っ赤にしたイルカが慌てて替えの服を貸してくれたのは良いが、彼が抑えようとしていた何かに火がついてしまったようだ。
先程から聞こえてくる、切羽詰まった息遣いと悩ましい心の声。
耳を塞いでも、声だけは頭に直接響いてくるのだから始末に負えない。

(は、やく、終わらさなきゃ……さっき、ここでカカシさんが、裸で……)

身体洗っただけですよ、と思わず言い訳したくなるほど、イルカの声には色気があった。
しかも今は彼の自室で、普段使っているベッドの上で、今まさに自分を慰めているらしいイルカの気配を感じながら待っているのだ。どうにも腰が落ち着かない。
しかも、このベッドで先日、彼は――

(あ、あ、いく、いく……っ)

届いた声に、どくん、と心臓が大きく脈打った。
普段穏やかに響く彼の心の声が、女のように上擦って途切れる。
外は心地の良い秋の風が吹いているというのに、額にじっとりと汗が滲んだ。股間のあたりがもぞ、と疼きかけるのを、踵を数度踏み鳴らすことで抑える。
こうも性に翻弄されるのは初めてではないだろうか。カカシは童貞を捨てた時ですら、行為に没入しきれなかった人間だ。それが、同性の、しかも未だ知り合いの範疇を出ない相手の自慰行為を耳にしただけで、息が上がるほど興奮している。
白いシーツをぎゅうと握る。
イルカが一人乱れていたあの夜、彼をよがらせていたのは果たして指だけだったのだろうか。もし道具を使っていたのなら、それはこのベッドの下に隠されていやしないか。指や、道具の挿入を楽にするための潤滑剤を、彼はどんな顔をして購入したのだろう。
自分を慰めるために。
尻の穴に指を入れるために。
肉を掻きまわして、俺の名を呼ぶために。

からから、と扉が開く。

「あれ、まだ起きてらしたんですか」

濡れた髪を拭きながら、イルカがにこりと微笑んだ。

「や……やっぱり、俺、帰ります」

咄嗟に口から出たのはそんな言葉だった。
借りた部屋着を着たまま、カカシはベッドから腰を浮かせる。

「えっ、あ、何かありましたか」

窓に視線をやるイルカは、カカシに急な呼び出しがあったと思ったのだろう。しかし、首を振って否と答える。

「いや、そういうんじゃないです。やっぱり、帰ろうかと」

動揺を押し殺すあまり、声に抑揚が無いと自分でも分かった。それが相手にどう伝わるか分からないはずは無いのに、嘘でも愛想よく取り繕うことができない。
当然、イルカは表情を強張らせた。

(嘘だろ、どうして)

「そ、そうですか、外も暗いのでどうぞ、気を付けてくださいね。なんて、カカシさんなら大丈夫か」

あはは、と笑う健気さに答えることもできず、俯いた。裸足のつまさきが、イルカの敷いた布団に触れる。飲みすぎて、知り合いの家に泊めてもらうだけの話が、どうしてこうも難しいのだろう。
答えないカカシに戸惑うように、イルカがひとつ咳を零した。

「あ、服、どうしましょうね。ベスト、後ろのハンガーにかけてあって」

後ろ、とはベッドの奥の壁のことだ。二人分のベストが並んで掛けられていることに、風呂を出たとき気付いていた。
見た瞬間、傷み具合の違うふたつのベストが仲良く吊られていることに、何とも言えないくすぐったさを感じた。もうずっと忘れていた、他人に世話を焼かれる心地よさがそこにあったのだ。

「さっき脱がれた服もすぐまとめますね」

わざと明るい声を出した彼が、ベストを取るためだろう、寝室へ入ってきた。ベッドの足元をすり抜けようとするその表情には笑顔が浮かんでいるのに、カカシの耳には、頭には、泣き声にも似た声が響き渡る。

(まさか、さっきの聞こえて……どうしよう、どうしよう、俺……っ)

「……っ」

考えるより先に身体が動いた。
イルカの腕を掴む。咄嗟によろけかけた身体を引き寄せ、腕の中に強く抱いた。

「ごめん……っ」

驚きに固まるイルカの口に、唇を押し当てる。
抱きしめた身体も唇の感触も確かに男のものなのに、どうしようもないほど胸が熱かった。


◇◇◇


「えっ、あ、何っ」

身体の下で、イルカの声が弾む。
ベッドへ押し倒し覆いかぶさっても、彼は逃げようとはしなかった。
使い込まれたベッドの木枠が立てるぎしりという音がやけに大きく聞こえる。お前はとんでもないことをしているのだと叱咤されているようだった。

(何だこれ、どうなってる、カカシさんが俺を)

状況の判断がつかないのだろう、イルカの声は混乱している。
カカシはシーツの上で行き場を失くしている彼の手を取り、首の後ろへ回させた。
そうして、全身をぴたりと密着させたまま再び口づける。

「んっ」

イルカの身体がびくりと強張るのを、抱え込んだ頭を優しく撫でて宥める。柔らかく、厚みのある唇を食みながら、重なった身体を擦り合わせているうちに段々とイルカの緊張が解けてきた。
そのタイミングを見計らい、唇の間を舌でつつく。
開いたままのイルカの瞳が、戸惑うように揺れる。その目を見てやっと、自分が今どれほど険しい顔をしているのかに気付いた。いくら何でもがっつきすぎだ。
けれど、今さら止められない。
カカシは意識して眦を緩め、彼を安心させるように薄く微笑んで見せた。そこでやっと、イルカが引き結んだ唇を緩める。
許しを得て入り込んだ彼の咥内は、熱くぬめっていた。自分と同じ酒の味を感じながら、固く粒のそろった歯の感触を確かめる。肉と歯列の間を辿りながら、怯えて縮こまる舌に優しく触れた。

「ふ……んぅ」

ぴくりとイルカの身体が震える。首の後ろに回る彼の腕にも力が入ったのを感じ、カカシは慎重にイルカの弱点を探った。

(す……ご、キスって、こんな……)

口の中、どこに触れてもびくびくとする彼はおそらく他人と肌を合わせた経験が無いのだろう。響いてくる声を聞くに、口づけすら初めてかもしれない。
処女趣味は無いカカシだったが、イルカにとって何もかも自分が初めてなのだと思うと言い様のない興奮に襲われた。

「んっ、は……あっ」

息の仕方にも慣れない彼のため、僅かの間唇を離してはまた奪う。
舌を絡ませながら耳介を撫で、眉や生え際もすりすりと撫でながら湿った髪に指を通す。その頃には彼も、カカシの与える緩やかな刺激にうっとりと瞳を閉じていた。
カカシがじわじわと彼の両脚を開かせ、その間に身体を収めていることにも気付いていないかもしれない。
イルカに借りた、少しごわつくスウェット生地越しに股間同士を擦り付ける。
張り詰めたものがぐり、と触れ合う感覚に、イルカが声を出せないまま、ああ、と喘いだ。カカシの胸にダイレクトに響く甘いそれにますます昂らされる。
口づけを続けながら手を滑らせ、彼の身体をまさぐっていく。厚みのある男の身体は忍びらしく鍛えられているが、筋肉の上に薄い脂肪をまとわせてもいた。
ささやかに盛り上がった胸筋を布地越しに揉み上げると、イルカが初めて拒むような仕草を見せた。カカシの首に巻き付けていた両手で、遠慮がちに肩を押してくる。

「どうしたの、嫌?」

ちゅぽんと音を立てて口づけを解き、カカシはわざと上目にイルカを覗き込んだ。イルカの息はすっかり上がっている。額まで真っ赤だ。
彼はカカシの目線に狼狽えるように目を泳がせた後、そうじゃなくて、と小さく首を振った。

「は、恥ずかしい、です」
「平気だよ、俺しか見てないから。ねえ、もっと触って良い?」

言葉の終わりに顎へちゅう、と吸い付けば、イルカの喉元がひくりと動いた。吐息のような声で「はい」と答えたその身体へ、再び手を伸ばす。
今度は服の裾を捲り、引き締まった腹から脇を撫で上げる。時おり戯れに股間を擦り合わせると、イルカが分かりやすくびくんと身体を跳ねさせた。

「あっ、あ……ご、ごめんなさい、声……」
「いいよ、聞かせて。可愛いじゃない」
「そ、んな……あっ、は……んっ」

控えめな喘ぎが堪らない。カカシに見られていると思うと余計に恥ずかしいのだろう。
彼の自慰を眺めた際にも思ったが、随分感じやすいらしい。己の手管に次々反応され、悪い気のする男がいるだろうか。
堪らず、乱暴とも言える手つきで服を脱がせた。腕を抜き、首を抜き、くたびれたスウェットを上下ともに脱がしてしまう。

「ちょ、ちょっと待って、やっぱり恥ずかし……っ」

下着一枚の姿になったイルカが、カカシを見上げて息を詰めた。ちょうどカカシも服を脱ぎかけたところだ。たくしあげたスウェットを胸のあたりでぴたりと止める。

「どうしたの?」
「い、いえ……」

(どうしよう、カカシさん格好いい……)

恥じらうように視線を伏せるイルカに股間が痛いほど疼く。こんなに男心を擽って、どうやって今まで無垢でいられたのだろうか。
カカシは急く気持ちを抑え、イルカに見せつけるようにゆっくりと衣服を脱いだ。少し迷い、下着も脱ぎ捨てる。
途端、ぶるんと飛び出てきた愚息に苦笑が漏れた。

(カカシさん、全部脱いじまったんだ)

カカシがベッド下へ落とした下着を食い入るように見ていたイルカが、ゆっくりと顔を上げる。
期待を隠そうと懸命なその眼前へ、カカシは己のものを突き付けた。

「せんせ」

イルカの喉が上下に動く。カカシとの口づけでぽってりと腫れた唇が、誘われるようにカカシの切っ先へ吸い付いた。
ちゅう、と唇が押し当てられる。イルカの視線はカカシの屹立へ釘付けだ。

(これが、カカシさんの……)

熱い吐息が丸みにかかり、続いて赤い舌がそこをぺろりと舐めた。子猫がミルクを舐めるような控えめなそれは、次第に大胆にカカシのものを舐め上げていく。
竿の先端から、横笛を吹くように根元までべろべろと舌を滑らせる。髪よりは濃い色をした下生えに口の端が触れることすら嬉し気だ。
元からいきり立っていた雄茎が、イルカの奉仕を受けてますます血管を浮かせている。先端に滲んだ粒を吸い上げたイルカが、ちらりとカカシを見上げた。
カカシは何も言わず、ただ髪を撫でてやる。
目を伏せたイルカが、カカシのものをぱくりと咥えた。熱い咥内に迎え入れられ、カカシの口から熱っぽい息が漏れる。
味わうような丁寧さで、イルカはゆっくりとカカシのものを呑み込んでいった。技巧は無く、本能にも似た動きだった。

「いいよ、上手」

黒髪に指を通し、首筋を擽ってやる。
イルカは肩を竦め、膝立ちになったカカシの腿へ両手を添えた。

(カカシさんのちんぽ、でかい……よな? カリがすごく張ってる……やばい、口の中、何か変だ)

じゅぼ、ぐぼ、といやらしい音を立てながら、イルカが顔を前後に揺する。拙い舌遣いは刺激としては物足りないが、見下ろす視界はひどく卑猥だった。
顔にかかる髪を耳にかけながら、時折目でも観察しながらイルカが男のものをしゃぶり、味わっているのだ。口蓋に収まりきらない根元に指を添え、唇の端から涎を垂らして。
あの清廉な教師が、俺だけにこんな顔を見せている。

「っ……」

(あ、でかくなった……? すごい、口ん中いっぱい……)

蕩けるような声が胸に響く。カカシは堪らず、その口内から己を引き抜いた。ずるんと飛び出した陰茎が、弾みでイルカの鼻をぺしりと叩く。
イルカはきょとんとした顔を見せ、舌を出したままカカシを見上げた。
どこか幼いその表情にまた劣情を煽られ、カカシは黙ったまま彼を再びシーツへと押し倒した。

「わっ」

彼の両脚の間に陣取り、大きく開脚させたまま濡れた唇にむしゃぶりつく。生々しい味が自分のものだろうと構わない。カカシに翻弄されてばかりのイルカが、おずおずと首に手を回してくることが愛しかった。もっと、無茶苦茶に乱してやりたくなる。
舌を深く絡め合ったまま、彼の身体をまさぐる。肌を優しく撫で上げるだけで、イルカは大げさに身体をびくびくと震わせた。
骨太の肉体だ。もっと鍛え上げれば、カカシよりも大柄になることだって可能だろう。
首に巻き付く腕の力は強い。今、自分が鍛えられた男を、しかも忍びを組み敷いているのだと思うとほの暗い喜びが満たされるような心地がし、かすかに背筋が震える。

「んっ……ふ、あ……」

口づけの合間、胸を柔く揉んでいた時だ。イルカが堪らないといった風に声を上げた。
ここぞとばかりにその薄い盛り上がりを揉みしだく。
こり、と手のひらに当たる尖りを指で弾いてやると、カカシの下で彼の腰が跳ねた。

「ここ、気持ちいいの?」

答えを待たず、指先できゅうと摘まんでやる。あん、と可愛らしく鳴いた彼をもっと見ようと半身を浮かせ、下着一枚の姿を見下ろす。
息を上げる彼は、カカシに見られていることが恥ずかしいのか両手で身体を隠そうとした。その仕草に煽られ、両手首を掴む。
ぐい、と左右に開き、剥き出しになった身体へ唇を押し当てた。
固い鎖骨に歯を立て、なけなしの理性でもって跡が残らない程度に肌を吸う。
僅かに盛り上がった胸にちゅ、ちゅと唇を落としながら、期待に勃ち上がる突起へきつく吸い付いた。

「あうっ」

驚きか痛みか、イルカが仰け反る。
強張る両手を離し、カカシは彼を宥めるように今度は柔く舌で突いてやった。片方も指でくにくにと揉んでやると、今度は掠れたような喘ぎが漏れ聞こえてくる。

「は……、あ、ん……」

(む、ね、気持ちいい……自分でするときと全然、違う……)

やはり自身でも弄っていたのか。彼が決して言わないであろう事実を聞きつつ、カカシはイルカに見えないように口の端を上げた。確かに未開発ではこうも感じないだろう。一人、眠れぬ夜に彼が布団の中、控えめな手つきでここを弄っている姿を思い描き、勝手に喉が鳴る。
小さいが、弾力のある突起は茶褐色で、よく見ると楕円の形をしている。ぴんぴんと指先で弾くたびにイルカは身もだえ、下着をますます濡らしていた。
素直な反応に、カカシの雄も昂るばかりだ。
中途半端にしゃぶられたままのものが、今か今かと出番を待っている。
名残惜しく胸から唇を離したカカシは、起き上がるとおもむろにイルカの両膝をぐいと左右に押し開いた。

「あっ」

そのまま腰が浮くほど押し上げ、はしたなく濡れた下着を凝視する。
右曲がりに頭をもたげたイルカのものは、今にもはみ出しそうなほどだ。

「い、やだ、見ないで」

慌てて両手で股間を隠そうとする手をぺしりと叩き、カカシは吸い寄せられるようにそこへ顔を寄せた。

「うそっ! だめですカカシさんっ」

制止の声など何の役にも立たない。
カカシは下着越しに大きく呼吸し、イルカの股間の匂いを嗅いだ。風呂上がりの身体からはかすかな石鹸の匂いに混ざって、消しきれない若い雄の匂いが立ち込める。
暴れるイルカの踵が背を叩いたが、カカシは満足するまでそこから顔を離さなかった。

「いやだ……も、もう、やめてください……」

やがて、ぐすぐすと鼻を鳴らす音が聞こえてくるようになってようやく顔を上げる。
目を潤ませたイルカを見つめ、ごめん、と言いながら下着を脱がせる。

「わぁっ」

脱がされた下着を取り返そうと身体を起こすイルカの手を取り、カカシの股間へと導く。剥き出しの陰茎が、イルカの手の中でどくんと脈打った。

「っ……」
「これがあなたの中に入っても大丈夫なように、濡らせるものはあるかな」

耳元で、わざとゆっくりと囁く。その間、イルカの手に手を重ね、勃起したままの陰茎を上下に擦っていた。

(すげえ……カカシさん、エロすぎる……っ)

視線を泳がせたイルカが、空いた手で真下を指さした。

「ベッドの、下に……箱、があって、その中に……」
「そう、ありがと」

こめかみに口づけを残し、ベッド下を覗き込む。イルカの言葉通り、丈夫そうな紙箱の中にローションボトルを見つけた。同時に、彼が普段愛用しているらしい秘密の道具も、だ。
半分ほど中身の減っているボトルとスキンだけを取り出し、ベッドの上で足を崩すイルカの元へ戻る。

「これ、使ってもいい?」

こくりと頷くイルカをシーツへ沈めながら、耳に唇を寄せる。ふ、と息を吹き込めば、彼が肩を震わせた。

「今度はあの道具を使ってるところも、見せてくれるかな」

一瞬で顔を赤くしたイルカがぶんぶんと首を振る。ぎゅうと閉じた瞼は桜色だ。

粘性のある液体を手のひらに馴染ませながら、大きく割り開いた足の間に垂らしていく。
小刻みに声を上げる彼は目を閉じたままだが、カカシの腕に手を添える様は続きをねだっているかのようだ。
きゅっと締まった尻の肉を左右に広げ、その奥で薄く色づく窄まりを撫でてやる。

「んっ……あ、や、っぱり、恥ずかしい……っ」
「誰かに触られるのは初めて? すごく可愛いよ、恥ずかしがらないで」
「で、でも……あ、あっ」

マッサージするように皺を伸ばし、慎ましい入口へ中指の先をつぷりと挿れた。途端、きゅうきゅうと肉輪が収縮し、カカシの指をもっと奥へ引き込むかのように蠢く。
自分でしていただけのことはある。何も知らない身体ではないのだ。

「ゆっくり息を吐いてごらん。そう、上手だね……そうしたら、少しいきんで……ほら、俺の指がどんどん奥に入っていくのがわかる?」

自分の声がいやに低くなっているのが分かる。興奮を抑えようと必死なのが却ってみっともないと思うが、イルカには歓迎されているようだ。さっきから、声がいい、やばい、と心の中で呟く彼の声が聞こえてくる。

根元まで包み込まれた中指で、彼の熱さを堪能する。指がちぎれそうなほどの締め付けは無く、柔軟にカカシを受け入れる良い孔だ。
傷つけないよう慎重に襞を撫でながら、ぐるりと指を一回転させるとイルカが喘ぎと共に足をばたつかせた。

「痛い?」
「痛く、ないです……へ、変で……っあ、ん、んふぅっ」

変、と言う場所を探ると、僅かな膨らみが指に触れた。
あんっと高い声を上げ、イルカの身体へ目に見えて力が入る。ぴん、と勃った乳首が目の毒だ。

「これ? この辺が気持ちいいの? 可愛い、じゃあ指増やしてもいいかな」
「あっ、や、ま、待って」
「大丈夫。すごく柔らかいから……ね、イルカせんせ、昨日も一人でしたでしょ」

ずばり言い当ててやれば、イルカが目を見開いた。

(なんで、分かって……っ)

「ご、めんなさ」
「どうして謝るの? いいじゃない。やらしい人、俺は好きだよ」

言ってから、しまったと思った。カカシが『好き』という言葉を口にした途端、指がぎゅうっと強く締め付けられ、イルカの瞳がきらり、と瞬いた。

(カカシさん、カカシさん、俺、あなたのことが……)

ふるふると唇を震わせた彼が言葉を発する前に、締め付けをかいくぐり、指を二本に増やす。

「あうっ」

仰け反るイルカの唇を奪い、舌を絡めながら孔を責め立てる。
だらしないほど大きく足を開いたまま、イルカは言葉を奪われ、ただ腰を跳ねさせていた。
指に絡みつく肉が熱い。ちら、と見れば、彼の陰茎は勃起したままその先端から粘液をしとどに垂らしている。
濡れやすくて感じやすい。今まで誰にも目をつけられなかったのが不思議なほどだ。
互いの唾液が混ざり合い、イルカの口の端からとろとろと溢れていく。誰にも汚されることのなかった逞しい身体をカカシに晒し、身の内側まで苛まれても尚、何故か彼からは清廉さが消えない。こんなに蕩けた顔をしていても、薄っすら開いた瞳に宿る光は強くカカシを射抜いていた。
どうしてこんなにも欲しくなってしまうのだろう。自分を律することで今まで生き抜いてきたはずなのに、彼の前ではカカシの理性はひどく脆い。

「は……っあ、だめ、だめです、いきそう……っ」

必死じみた声にはっとする。口づけながら三本に増やした指はイルカの良いところを溶かしきってしまったようで、指をぎゅうぎゅうと締め付ける彼の腰はシーツから浮き上がっていた。
今にも精を吐き出しそうなほど反り返る陰茎を一瞥し、カカシはひと息に指を引き抜いた。

「ひぃっ」

ぎゅうとシーツを握り締めたイルカだったが、逐情にはあと一歩届かなかったらしい。
どうして、と心の中でカカシをなじりながら、熱っぽい視線を向けてくる。
カカシはたった今まで彼の中に埋めていた指で、びきびきと筋の浮いたイルカの裏筋をつう、となぞりあげた。

「んあっ、やっ、い、いかせて」

堪らず下肢へ手を伸ばすイルカを視線で制し、彼の両腿をぐい、と膝に乗せる。質量のある腿にはしっとり汗が浮かんでいて、毛の薄い内側は手に吸い付くほど滑らかだった。

「あ、あ……」
「指より、これがいいでしょ?」

蕩け切った孔に、ひたひたと押し当てたのはカカシの陰茎だ。待たされすぎて一時は萎えかけていたものの、挿入を前にすっかり勢いを取り戻している。
イルカの喉が、ごくりと上下したのが見えた。
昂る興奮を抑え、素早くスキンを装着する。陰茎に密着した被膜の上からローションをたっぷりと垂らす様も、彼は食い入るように見つめていた。

(信じられない、カカシさんが、俺に……)

「分かる? これが今から先生の中に入っていくんだよ」

竿へローションを塗り広げながら言えば、普段ではありえないほど緩んだ顔をしたイルカが頷いた。その腰を片手で支え、孔へあてがった切っ先へぐっと体重をかける。

「あ、あぁ」

ぐぬう、と生々しい感触と共に彼の中へ肉がめり込む。
散々慣らしたおかげか、普段からの彼の鍛錬のおかげか、挿入は思ったよりもスムーズだった。とはいえ緩いわけではなく、奥へ挑むには慎重さが必要だ。
カカシはずぶりと突き入れたい衝動を堪えつつ、イルカの反応を見ながらゆっくりと腰を進めていく。

「痛みはない?」
「ない、です」

(ちょっとだけ痛ぇけど、言ったらやめちまう)

心の声が聞こえていることに感謝しつつ、片手で結合部にローションを足す。ぬめりを馴染ませるために小さく前後し、イルカの身体からこわばりが抜けてきた頃を見計らって再び腰を動かした。

「あ、あっ、すご、大きい……っ」
「玩具と違う?」
「違い、ます、全然……あ、も、もう入んない」
「だぁいじょうぶ、ほら、手貸してごらん」

前かがみになり、ぐす、と鼻を鳴らすイルカの両腕を背中へ回させる。動いた弾みに角度が変わったようで、耳元でイルカが大きな声を上げた。
構わず、密着した状態で腰を突き入れれば、あまりの良さにカカシも思わず唸ってしまった。柔らかく熱い肉が、カカシの雄をなめしゃぶっているかのようだ。

「んぁっ、あっ、あっ、おく、おく、届いちまう、うぁ、あぁっ」
「っ……すご、あー……」

触れ合う肌が汗でぬるつくことすら気持ちが良い。イルカのこめかみを流れる汗を唇で吸い、ひ、ひ、と震えるその頬へ何度も口づけた。
薄い膜一枚隔てただけでもこれほどの官能を得られるなら、何もまとわず彼に包まれたらどれほどだろう。想像しただけで背に快感が走った。カカシは目を細め、深く埋めたままでイルカを揺さぶる。ぎ、ぎ、とベッドの軋む音が卑猥だ。

「やっ、あ、あ、だめ、出る、出ちまう、も、無理」
「うん、気持ちいいね、全部出しちゃおうか」
「あ、そんな、だめ、と、止まって……あ、あ、あぁ……っ!」

カカシの下でイルカがびくんと繰り返し跳ねる。腹の間に熱いしぶきが飛ぶのを感じながら、うねる孔内を堪能した。
締め落とさんばかりにイルカが首に抱き着いてくるのも心地が良い。鼻息荒く放出の余韻に浸る彼が落ち着くのを待って、カカシは身体を起こしイルカから自身を引き抜いた。

「あうっ」

しどけなく開いた足の間で、孔がくぱりと口を開けている。赤く腫れた縁の奥に、恥肉が蠢いていた。むしゃぶりつきたくなるようなその光景に舌なめずりしつつ、体格の良い彼をぐるりとうつぶせにする。
あふ、と気の抜けた声はシーツに吸い込まれていった。
されるがままの腰を高く持ち上げ、今度は背後から挑みかかる。

「んあっ、あ、待って」

閉じ切らない孔に切っ先を当てがう。
縋るものを探し、イルカの指先が空を掻いた。うねる背中の中央、斜めに走る傷跡がいやになまめかしく映る。
ナルトをかばい、深手を負ったというのはこのことか。
まだらに赤く染まる肌の上で、そこだけ白く浮かび上がる肉線を見つめながら、どっしりとした腰を両手で強く掴んだ。むっちりとした肉に指が食い込む。

「ひ、い……あ、あっ、うあぁっ」

ぐん、と奥まで突き入れ、前後に大きくストロークする。仰け反り喉を晒す彼の目は大きく見開かれていた。
ぬめる媚肉が陰茎の凹凸に吸い付き、抜き差しの度に肉輪がきゅうきゅうとカカシを扱き上げてくる。夢中になって腰を振っているうちに、溜まった精液が管を上がってくるような感覚があった。
もっと彼を味わいたいと、深い場所を探り、浅いところまで腰を引く。ぎりぎりまで引き抜いたとき、孔のふちがカカシを追いかけるように吸い付いてきた。内側が捲れ、充血した肉がちらりと見える。
いや、いや、と顔をシーツに押し付けているイルカにこの様を見せてやりたいほどいやらしい。
何度も抜き差しするうち、結合部がぷくぷくと粟立ってくる。肌と肌とがぶつかる音に、互いの荒い息。それに加え、彼が胸の中だけでつぶやく言葉がカカシの心まで侵食してくるようだった。

(いい、気持ちいい、ああ、嘘みたいだ、カカシさんとこんな……本物のカカシさんのちんぽが、俺のケツに入ってるなんて)

どうねだっても声には出してくれないだろう直接的な言葉に、カカシの魔羅がますますいきり立つ。
腰を抱えていた手を滑らせ、汗ばむ肌を辿りながら彼の背中へ胸をぴたりと密着させた。

「ひゃ、あっ、だめ、奥、おく……ああっ」

うなじに歯を立て、がぶりと噛みつく。跡を残さないようにという配慮はもう消えていた。
弾力のある肉に犬歯が押し返される感触を味わいつつ、しょっぱい皮膚をべろべろと舐め上げる。

「んんっ! あ、だめ、またいく、いっちまう、許して、許してくださ……っ」
「俺も出そう、ねえ、一緒にいこう? いっぱい突いてあげるから、ねえ」
「あっ、や、やっ、つ、突かな……っ、あ、ああっ、だめだめ、いく、いく、うぅ、ん、んーっ」
「……っ」

がくがくがく、と痙攣したのはイルカだけでは無い。どぷりと吐き出す一瞬、目が眩んだ。その瞬間だけ腰の感覚が無くなるほど、強い快楽を感じながらの放出だ。
完全に出し切った後も互いに息を詰める。背後からイルカを強く抱きしめた。イルカの両脚もまた、ひざ下を器用にカカシに絡めている。
心臓の音が耳元で聞こえるようだ。息を吐き出し、どくどくと早鳴る鼓動のまま、横を向いたイルカに口づける。
唇を吸い合い、髪を掻き分けて汗に濡れた地肌を指で撫でた。
今までの経験に無いような、ふわふわとした感覚がカカシを支配していた。ぼんやりとこちらを見つめるイルカもそれは同じようで、カカシに口づけをねだりながらしきりに顔を撫でてきた。
甘い時間に浸っていたとき、ひく、とその内側が蠢いた。二度目を促す気配にふと、頭のどこかが覚醒する。
そっと身体を起こし、尻の合間からずるりと己を引き抜く。

「ん、あぁっ……」

足をぴくんと跳ねさせたイルカの、双丘の間からゆっくりと透明の粘液が溢れ出してきた。カカシの形に開いていたそこが、彼の呼吸に合わせて次第に閉じていく。
視線を落とせば、己の股座には萎えた逸物がぶら下がっていた。先端、スキンの中にはおよそ普段に無い量の白濁が溜まっている。
その生々しさに、一気に血の気が引く。
何てことをしてしまったんだ。
急いでスキンを取り去り、口を結んでベッド下に放り投げた。屑籠に入ったかなど、どうでも良かった。
しどけなく裸体を晒すイルカが、カカシを見て微笑む。緩慢な動作で身体を起こし、時折眉を顰める表情から目が離せない。
ちらりと覗くうなじには痛々しい歯型が残り、腹にはどろりとした白濁の跡がある。
イルカは散々な状態にある自分の身体を、うわあ、と照れたような声を出して眺めていた。
どうしてそんな嬉しそうにできるんだ。俺に、ひどいことをされたのに。
頭が痛い。がんがんと金属で殴られているようだ。

「カカシさん」

イルカが言う。はにかんで、いる。

「これって、俺たち――そういうことで、いいんですかね」

にこりと笑い、イルカが首を傾げた。鼻傷を掻く彼の目に、自分はどう映っているのだろう。
想像するだけで、足が震えた。

「――ごめん」
「え?」
「ごめん、本当にごめんっ」

転げ落ちるようにベッドから降りる。散らばった服をかき集め、イルカがハンガーにかけてくれたベストを引っ掴んで印を結んだ。

ぼふんと煙が立つ寸前、呆然とした表情のイルカが、カカシを見ていた。


◇◇◇


合わせる顔が無いという言葉を、これほど痛感したこともない。
あの夜以来、十日の間任務に出ずっぱりだったカカシだ。
フォーマンセルを組んだ際には報告書の提出を他人に押しつけ、火影勅命の任務では人目につかないよう気を配りながら火影室へ直行した。
そうして今、単独で赴いたAランク任務から帰還したカカシは、本部の廊下を重い足取りで歩いていた。
窓の外は暗い。本部と渡り廊下で繋がっているアカデミーからは当然子供の声など聞こえない時間だ。
深夜とあって、廊下の先に見える受付もしんとしている。
どうか、彼が居ないようにと願いながら扉に手をかける。
ぎぃ、と開くと、柔らかい光がカカシの目を刺した。

「お疲れ様です、報告書はこちらに――」

落ち着いた、だがよく通る声が半ばで途切れる。
避けたかった人物が、長机の向こうで一瞬動きを止めた。だが、すぐにその男――イルカは目を伏せて口元へ笑みを浮かべると、こちらへどうぞ、とカカシに向かって机の上を指し示した。
カカシは笑うどころでは無い。黙ったまま、視線を落として歩を進める。普段何とも思わないような距離が、いやに長く感じた。

「――お願いします」
「はい、お預かりします」

報告書を受け取ったイルカがペンを取る。そのこつん、という音。紙が机に擦れる乾いた音。その他に、この部屋に音は無かった。
聞こえない。
イルカの心の声が、聞こえなくなっている。
鳥肌の立つような衝撃に、カカシは口布の下で唇を引き結んだ。確かに、綱手に告げられた一週間という期限はとうに越え、もうすぐひと月が経とうというところだ。術が解けても何らおかしくは無い。
しかし、なぜ今、このタイミングで、と思う。
一番彼の本心が聞きたいと思うこの時に、声が聞こえなくなるとは。

「うん、問題ないです。遅くまでご苦労様でした」

労わるような笑顔が向けられる。それは彼の、職務上の矜持から来るものであろう。けれど今のカカシには何より痛い笑顔だった。
黙ったまま、小さな会釈を残して踵を返す。
以前なら痛いほど感じていた彼からの視線を背中に感じることもなかった。



通用口から表へ出る。夜間、正面玄関が閉鎖されているためだ。術を使えば瞬く間に自宅へ戻れると分かっていても、カカシはしばらく歩いていたかった。
正直言って、疲れてはいた。任務によるものではない。イルカとの、ほんの短い邂逅のせいだ。
彼の心の声が聞こえなくなっていること、詰りもされなかったことが、思った以上にカカシにダメージを与えている。
悪いのは自分だ。誰がどう見てもそう言うだろう。
だからこそ、何を言われても仕方がないと思っていた。彼が拳を向けてきたなら、大人しく殴られるつもりでもいた。
それなのに、イルカは笑みすら向けてきた。二人きりの空間なのに、だ。
暗く濁った感情が、カカシの中で渦巻く。後悔、焦燥、そして隠しきれない執着。
いつだったか、恋が何なのか、イルカに教えてほしいと思っていた。
少なくとも、これほど醜い感情では無いのではないだろうか。
街灯の灯る、静かな道をとぼとぼと歩く。
こんな思いをするならば、あの夜イルカに拾われなければよかった。そうすれば、以前と同じく、適度な距離感で付き合っていけたのに。

あと少し歩けば自宅、というところだった。
たったっ、と遠くから近づく足音に、カカシはぴたりと足を止めた。
心当たりの有りすぎるその気配にひとしきり逡巡した後で振り向くと、予想の通りひょこひょこと髪を揺らしながらイルカが追いかけて来ていた。
先ほど受付で見たのと同じ支給服姿の彼は、カカシと三歩の距離を開けて立ち止まるなり、ずい、と紙袋を差し出してきた。

「忘れ物です」

静かな、固い声だ。受け取った紙袋を覗くと、あの夜カカシが置き去りにしたサンダルや支給服が入っていた。洗濯をしてくれたのか、袋の中できちんと整頓されているそれに胸がぐっと詰まる。
何か言わなければ。そう思うのに、言葉が出てこない。
この十日間、ずっとスペアを使っていた。もう戻ってこないものだと思っていた履き慣れたサンダルは、土埃も無くぴかぴかだ。
どんな気持ちでイルカがこれを洗ったのか、袋に詰めたのか。ありがとう、などと軽率に言えるはずがなかった。
しかし、「じゃあ」と背を向けようとするイルカに、カカシは咄嗟に声をかけていた。

「受付はいいの」

言ってから、他に言うことがあるだろうと胸の中で舌打ちした。けれど他に浮かばなかったのだ。足を止めたイルカがこちらを振り返る。視線は合わない。

「ちょうど交代で仮眠をとる時間なんです。間に合ってよかった」
「そうなんだ……ありがと」
「いえ。じゃあ、これで」

今度こそ、イルカがカカシに背中を向ける。

「待って」

一歩踏み出したカカシの声に反応し、イルカが再び足を止める。けれど、彼はもうこちらを振り向かなかった。

「あの、さ」
「カカシさん、俺はあなたの気持ちがわかりません」

固い声に、カカシは伸ばしかけた手を止める。

「あんなこと……俺をからかって楽しかったですか。俺が、あなたのこと……す、好きなの、気付いてたんでしょう」
「イルカ先生……」
「俺、嬉しかったのに。仲良くなれて、それだけでよかったのに……っ」

こちらに背を向ける彼の、拳が小さく震えている。声は湿り気を帯び、彼が泣いているのだとカカシに知らせていた。
胸が痛い。頭の後ろも熱かった。気を抜けばよろけてしまいそうだ。
一歩、踏み出す。震えて泣いている彼をどうにかしなければ、と伸ばした手は、しかしぴしゃりと弾かれた。

「触らないでくださいっ」

じん、と指先に痺れが走る。きつい拒絶に息を呑むカカシを振り向かないまま、イルカが声を絞り出した。

「もう、俺に関わらないでください……」

遠ざかる背中を呆然と見つめるカカシの頬を、冷たい風が撫でて行く。
季節は冬になろうとしていた。


◇◇◇


木の葉の里に、今年最初の雪が降っている。
夕方から降り出した雪はまだ粒が小さく、積もるには至らない。それでも、空気を凍らせるには充分だった。人々は襟を寄せ、肩を寄せ合いそれぞれの家へと消えていく。
そんな冷え切った深夜、町に人影は少ない。
こんな、住宅街の路地などなおさらだ。

「あー……さっむ」

ごみの山に身体を埋めて、カカシはひとり呟いた。
疲労の溜まった身体に、雪は容赦なく降り注いでくる。
僅かながらチャクラは残っている。立ち上がろうと思えば出来るのだが、その気になれなかった。
ひと月に渡る任務から帰還したところだ。綱手への報告を済ませ、帰ろうとしたところでどうにも気力が萎えてしまった。
ふらふらと歩いて、目指したのがこのごみ集積場だというのだから笑えない。
里全体が天然の冷蔵庫のようになっているからか、ごみの匂いが少ないのには助かっている。
あの日は臭かったなぁ、と思い出しながら、カカシは口布の下で小さく笑った。
イルカに拾ってもらったあの日から、まだ季節がひとつ過ぎただけだというのに、自分は随分変わったものだと思う。
あんな酷いことをしでかしておいて、自分への懲罰のつもりで出向いた厳しい任務先でも気を抜けばイルカのことばかり考えていた。
もう彼の前に現れてはいけないと思っていたのに、里へ帰ればどうにも恋しく、この様だ。思い出の場所がごみ溜めなど、他人に言えば鼻で笑われるだろう。

「イルカせんせ、来ないかなぁ……」

掠れ声で呟く。雪は容赦なく降り続き、指先の感覚はもう無かった。
都合よくイルカが通りかかるはずもなく、ここで寝転んでもう半刻が過ぎている。
さっき塀の上を通りかかった猫など、カカシの姿を見るや飛び上がって逃げて行ってしまった。
このまま眠ってしまえば、彼岸とやらが見えるだろうか。そこまでやわで無いのは自覚しているが、そんな夢想に逃げてしまうほどカカシは疲れていた。
黒い空と白い雪のコントラストを見上げているのも飽きて、静かに目を閉じる。睫毛に落ちた雪が解けて、顔を濡らしていった。


小さく、息を呑む気配があった。
いつの間にか眠っていたらしい。カカシは目を開こうとして、凍った睫毛にそれを防がれた。
何とか持ち上げた手で顔を擦り、薄く瞼を開いた時には見慣れた木塀だけがそこにあった。
緩慢に首を動かし辺りを見渡すと、ごみ捨て場を背に歩く人影が見えた。頭の上で一括りにした髪が、ひょこひょこと揺れている。
カカシはその姿が小さくなっていくのをぼうっと眺めていた。元気そうでよかった、と安堵する。
まさか本当にイルカが通りかかるとは思わなかった。いや、微かな希望が無かったとは言わない。彼の姿をまたこの目で見られてじわじわと嬉しさがこみ上げる。
できたら顔が見たかったなぁと思いながら、イルカが角を曲がるのを見送った。その先には彼の住むアパートがある。
視線を上げ、二階の角部屋の明かりが灯るのを今か今かと待っていたカカシは、じゃり、じゃり、と凍った地面を踏む音が戻ってくるのを不思議な思いで聞いた。
音のする方を見れば、さっき彼が消えた角から同じ人影が向かってくるではないか。

「あれえ……」

口から零れた声は、存外楽し気な響きを伴っていた。
険しい表情のイルカが戻ってくる。眉は寄り、カカシを見る目は睨んでいると言った方がしっくりくる。
首にマフラーを撒いているのは初めて見た。淡いクリーム色のそれは彼によく似合っている。鼻と頬が赤いのは、この寒さのせいだろう。

「やっぱ、やさしーね、イルカ先生は」

やはり楽し気な声が出た。
イルカは眦を吊り上げ何か言いかけたが、ややして口を噤んだ。カカシの全身を目視し、ふいっと顔を背けてしまう。

「医療班を呼びます」
「大丈夫ですよ、こう見えてチャクラ切れってわけでもないんで」

素っ気ないイルカが、それでも話しかけてくれたことが嬉しい。
カカシは自らの力でごみ溜めから身体を起こした。ぱきん、と音がするのはごみ袋の表面にも氷が張っていたからだろう。

「でもねぇ、立ち上がるのはちょっと……あいたっ」

ごわごわとしたごみの山に足を取られてたたらを踏む。
間抜けな自分に、イルカが心配そうな顔を向けていた。

「ごめんね、ちょっと手貸してくれる?」

逡巡したイルカが、嫌いやな素振りを見せながら手を差し出してくれた。
カカシは口布の下で口角を上げ、その手を強く握った。

「ちょっ……」

思わぬ力に慌てるイルカに一足飛びで近づき、腕の中に閉じ込める。咄嗟にカカシを押しのけようとするのも構わず、ぎゅうぎゅうと抱きしめた。

「会いたかった」
「んな、勝手なこと」
「うん、ごめん。でも会いたかった、あなたに会いたかったよ、イルカせんせ」

言って、ふうと吐き出した息は白かった。
触れるイルカの、耳も、頬も冷たい。寒空に転がっていた自分はもっと冷えているだろう。
彼が身体を固くしているのは、驚きばかりではないかもしれない。
ごめんね、ともう一度言えば、イルカがちっと舌打ちをした。

「くそ……ゴミ臭ぇんだよ、あんた」
「はは、そういうあなたは酒臭いね。忘年会?」
「どうだっていいでしょう」

吐き捨てるように言うイルカが、カカシの胸をどんと押した。今度は抗わず、素直に身体を離す。
拳ひとつ分の距離で向かい合うと、イルカがカカシの頭からつま先までをさっと眺めた。

「怪我は無いんですね」
「うん」
「うんじゃねぇよ……はぁ、せめてその匂い何とかしてください。ほら、行きますよ」
「家に入れてくれるの?」
「風呂を貸すだけです。余計なことしたら叩き出しますよ」

ぷりぷりと怒りながらイルカが歩き出す。大股でずんずん歩くその後ろ姿に見惚れるまま、カカシも一歩を踏み出した。

「嬉しいな、ありがと……って、あらら」

どす、と地面に膝をついてしまった。
くるりと振り返ったイルカが慌てて走り寄ってくる。

「ちょっと、やっぱチャクラ切れてんじゃないですかあんたっ」
「いや、これはただの疲労……」
「いいからもう、ほら乗って!」

イルカが屈み、カカシに背を差し出してくる。
いいの?と問えば、早く!と怒られた。
有難く彼の背に身体を預け、初めて拾われた夜と同じ高さに負ぶわれる。

「くっそー、やっぱり重い」
「ごめんねぇ、今度は俺がおんぶしてあげるから」
「俺はあんたみたいに道端でぶっ倒れたりしません!」

カカシが何を言っても癪に障るようで、イルカはぎゃあぎゃあと賑やかだ。
それが無性に嬉しくて、カカシはアパートへの短い道で何度かイルカに怒られた。

雪で凍った外階段を危なげなく上り切ったイルカが部屋の鍵を開ける。
外寄りは幾分かましだが、それでも冷えきった室内にカカシはどすんと下ろされた。

「風呂! 今用意しますから! そこで待っててくださいね!」
「はーい」

ごろりと床に転がったまま返事をする。
イルカはぷりぷりと怒ったままカカシをまたいで部屋に入り、ぱちぱちと台所や今の電気をつけて回った。
雑にベストを脱ぎ捨て、腕まくりをして風呂場に消えていく。

じゃあじゃあ、ごしごし、と風呂掃除をしている音も賑やかだ。忘年会帰りというのが当たっていれば、本当は風呂も使わず寝てしまうところだったのかもしれない。
余計な仕事を増やして申し訳ないと思う一方で、イルカが自分のために何かをしてくれていることが嬉しい。
カカシのことなど見捨てて当然なのに、こうまでしてくれるのはまだ望みがあると思って良いのだろうか。
それとも、イルカの人の好さはカカシが思う以上なのだろうか。
あの夜、自分がしたことは忘れられるはずもない。イルカの口にした拒絶は今も胸に刺さったままだ。
離れたひと月の間カカシがずっと彼のことを考えていたように、イルカの中でも何かが動いたのだろうか。

煩悶するカカシの耳に、どすどすという足音が届く。
見れば、真上から仁王立ちのイルカがカカシを見下ろしていた。

「風呂、どうぞ。歩けないなら這ってってください」

裸足の足から湯気を立ててイルカが言う。その赤くなった指先を間近で見て、カカシはこくこくと頷いた。
本当は歩けそうだったが、彼の手前四つ這いで風呂場へ向かう。

「着替え、仕方ないからお貸ししますけど、そのまま捨てて下さって構いませんから」

そんなことしませんよと答えたのには返事がなかった。
脱衣所の扉を閉めるとカカシはすっくと立ちあがり、確かに饐えた匂いのする衣服を脱いでいく。
風呂場のすりガラスを開ければ、むわりと湯気が立ち上っていた。入念に身体と髪を洗い、有難く湯に浸かる。前に風呂を借りた時は緊張が勝ってくつろぐどころでは無かったが、今は浴室の中を眺めるだけの余裕があった。
人間落ちるところまで落ちれば、却って冷静になるものだ。
広いとはいない浴室だが、清潔に保たれている。フックにぶら下がっている葉っぱの形のスポンジは掃除用だろうか、彼がこれを使って風呂掃除をしたのだと思うと笑みが零れた。
ほんと、お人好しだよね。優しくってさ。
胸の中でひとりごち、つんと鼻が痛んだ。視界がぼやけるのは、湯気のせいだと思いたい。
カカシはしゅんと鼻を鳴らし、ざばりと浴槽を出た。
用意されたタオルを使い、身体を拭っていく。洗濯機の上にはイルカの言っていた通り着替えが置かれていた。
真新しいその支給服を身につけ、がらりと脱衣所の扉を開ける。
と、うまそうな匂いが漂ってきた。

「え、メシ作ってくれたの?」

ぽかんと口が空く。口布も額当ても外しているから、間抜けな表情はイルカに隠せるはずもなかった。

「いらなかったらそのままにしといて下さい」
「食べる、食べるよ。嬉しい、ありがとねイルカ先生」
「べ、別に……食ったらとっとと帰って下さいよ!」

怒ったようにそう言って、今度はイルカが脱衣所に入っていってしまった。
卓袱台に置かれた大皿を見て、カカシの頬がどうしようもなく緩んでいく。

「うわぁ……」

少し茶色い焼き飯には、一口大に切ったちくわやキャベツが入っていた。きっと、冷蔵庫から少ない材料をかき集めて作ってくれたのだろう。
やっと一人分のその食事は、カカシのためだけのものだった。
卓袱台の前で正座し、両手を合わせて頭を下げる。添えられたスプーンを手に取り、口に入れた一口目は例えようも無く美味かった。
しょうゆと塩こしょうで味付けされた焼き飯の、野性味のある味わいが口の中いっぱいに広がっていく。しゃきしゃきと、時々がりりと歯ごたえのあるキャベツも、しなしなとしたちくわも、良いアクセントだ。
殊の外ゆっくり時間をかけて食べていたからか、がらりと扉を開けたイルカが「うわっ」と声を上げた時もまだ三分の一ほどが残っていた。

「ま、まだいたんですね……」

頬をひきつらせてイルカが言う。
下ろした髪はしっとりと濡れていて、肩にかけた白いタオルでそれをがしがしと拭いていた。

「イルカせんせ、ありがとね」

正座をしたままで頭を下げる。イルカは「別に」と言ったまま、台所に立った。
しばらくして、二人分の湯飲みが卓袱台に置かれる。中身は湯気の立つ緑茶だった。

「食べたら帰って下さいよ」

はす向かいであぐらをかいたイルカが言う。後ろに手をつく様はどこかやさぐれて見えた。
こくこくと頷き、カカシはまたゆっくりと残りを腹に入れた。
カカシの咀嚼する様を見つめ、イルカが何度かはぁとため息を吐く。そのたびにちらりと見上げるが、視線はそらされるばかりだ。
ついに皿を空にし、緑茶も飲み干してしまった。

「美味しかった。ごちそうさま」

空の皿を持ち立ち上がる。流しでそれを洗っていても、イルカは何も言わなかった。ただ、視線だけが背中に刺さる。
水切り籠に皿を預け、濡れた手を乾いた布巾で拭う。
振り返れば、座ったままのイルカと目が合った。今度は、そらされない。
カカシはイルカに小さく頭を下げた。

「風呂入ってメシ食ったらだいぶ調子戻ってきました。服は今度……そうだな、玄関の前にでも置いておきますね」

身体の調子が良くなったのは本当だった。チャクラ切れのようだった脱力感も、里を飛び回れるくらいには戻っているはずだ。
ごみ溜めの匂いが染みついたあの口布を身に着けるのは少々抵抗があるが、仕方ない。
もう一度イルカの顔を目に焼き付けて、装備を手に取ろうとしたその時だ。

「泊まっていくって言わないんですか」

イルカがぼそりと呟いた。
目はどこか据わっているが、目尻に朱が差している。

「もしやり直したいなら、泊まっていかなきゃだめでしょう」

怒ったような口ぶりに、カカシは「え」と口を開いた。
これは、泊まって良いということだろうか。食べたらとっとと帰れと言っていたのに、どういう風の吹きまわしだろう。

「い、いいの?」
「嫌ならいいです」

言って、イルカが立ち上がる。ずんずんと部屋の奥へ進むその耳は真っ赤だった。

「ちょ、ちょっと待ってよ」

追いかけるカカシの耳も次第に熱くなってくる。彼がずっと怒ったようなのは、もしかしたら照れ隠しなのだろうか。
ベッドの手前でイルカの手を掴んだ。暖かく、ごつごつとした手は紛れもなく男のものだ。最初の夜カカシを助け起こした手であり、あの夜背中に回った手であり、今夜また、カカシを助けた手だった。

「俺はまだ、許したわけじゃないですからね」
「まだ、だったらいつかは許してくれるんだ?」

我ながら甘えた声だ。イルカが険しい目でこちらを振り返る。しかし、その瞳は微かに潤んでいた。

「ふふ、本当に優しいよね、イルカ先生は。そういうところも好きですよ」
「そ、そうやって俺のことからかわないで下さいっ」
「からかってなんかいないよ。ねえ、ちゃんと言わせて。俺、イルカ先生が好きです」

握ったままの手がびくりと震えた。嘘だ、と彼が呟く。

「嘘じゃないよ、説得力ないかもしれないけど……最初にあなたが俺を拾ってくれたときから、少しずつ、好きになってた」

彼の手を握ったのと逆の手で、そっと腰を抱く。僅かに力を込めれば、イルカがカカシに背を預けてきた。まだ湿気の残る肩口に顎を乗せ、後ろから緩く抱きしめる。

「あんなに強引にするつもりじゃなかった、ごめん」

自分の仕打ちを詫びれば、イルカがぐすんと鼻を鳴らした。

「お、れは……あんたの、気まぐれだと思って……でも、それでも、嬉しくて、そんな自分がみじめで……っ」

ぽろりと、彼の頬を涙が伝った。胸が締め付けられ、その頬に唇を寄せる。ちゅ、ちゅ、と涙を吸い上げながら、反対の頬を手のひらで包んだ。

「うん、ごめん、ごめんね。泣かないで」
「くそ……っこんなの、ずるい……っ」
「でも、やり直させてくれるんでしょ?」
「あんたがあんなとこに転がってるからだ! ……せっかく、忘れられそうだったのに……!」

じたばたと暴れるイルカから手を離し、弾みでよろけた彼をベッドへひょいと転がした。

「忘れられなくて、良かった」

無防備なイルカに覆いかぶさる。一瞬身を強張らせた彼の髪へ、頬へ、小さく唇を落とした。

「イルカ先生は、俺のこと好き?」

唇が触れ合うほどの距離で問いかける。目を見張ったイルカがわなわなと唇を震わせる。その頬がじんわりと桃色に染まるのを、うっとりと見つめた。

「す、すき、ですよ」
「俺も、イルカのことが好きだよ」

初めて敬称を付けずに呼べば、案外しっくりときた。
イルカはというと顔を真っ赤にして口を震わせている。
心の中ではきっと、恥ずかしいだの、こんなこと言わせるなだのと思っているのだろう。聞こえなくても、表情豊かな彼からは思いが伝わってくる。
始めからよく見ていればよかったのだ、この人のことを。
あの術にかかったことでイルカに惹かれたとばかり思っていたが、案外きっかけなどその辺に転がっていたかもしれない。
ふ、と笑ったカカシに、イルカが頬を膨らませる。その愛らしい様子に調子に乗って何度もイルカ、イルカと呼んでいると、ふいに首の後ろをぐいと掴まれた。
そうして、がちん! と音がしそうな強さで唇がぶつかってくる。
思わず「痛っ」と呟けばイルカがしてやったりと鼻を鳴らすので、今度はカカシの方からねっとりとした口づけをお見舞いした。
唇を合わせ、隙間から舌を挿し入れる。緑茶の苦味の残る咥内を味わい、厚い舌を舐めねぶってやると、イルカが目に見えて大人しくなった。
こくん、と喉を鳴らして唾液を飲み込む様が淫らで、あらぬところが催してくる。
しかし、いざ、と思ったのもつかの間、強烈な眠気がカカシに押し寄せてきた。
唾液が糸を引くのもそのままに唇を離し、ずるずるとイルカの上に倒れ込む。

「ちょっとカカシさんっ」
「ご、ごめん、もう限界みたい……」

食事で補給されたかに思えた体力は早くも底を尽き、カカシはそのまますやすやと眠りについてしまった。
残されたイルカが散々悪態をつきながらカカシに布団をかけたのも、翌朝病院へ叩き込まれたのも、すべては一週間経ってから知ることとなる。
鬼の形相のイルカをもう一度かき口説いたカカシは、あのごみ集積場の掃除当番を一か月引き受けることを条件に、また、彼の家へ訪れることができたのだった。